chapter.13

「俺の名はオグだ。お前たちを殺す者の名を覚えておくがいい」



 その名乗りと殺気にまず反応したのはニシキだった。腰に差していた刀を素早く抜くとそのまま振り上げ、両者の距離を無視して伸びる影の刃を、弾き飛ばすようにしてオグの胴体を狙う。


「その名前、『観測者』のことを知ってるって奴か。あんた何者や」


 しかし、問い掛けと共に放たれた刃は、相手が片腕を軽く振るうだけで、その鈍色の巨大な爪が簡単に退けてしまった。オグの今にも人を喰らおうとする殺気立った視線が、ニシキへ、そして一同へ順に向けられる。


「どこで聞いたか、俺のことを知っている奴がいるとはな。まあ、教えてやってもいい」


 自分を知っている者がいると分かり、品定めをするように獰猛な細い目を更に細めると、大男は意外にもあっさりと話し始める。


「数日前、この世界で仲間になった奴を殺した時だ。酷い耳鳴りがした。その時にいくつか思い出したことがある――俺は囚人だった。それも死刑が決まっていた死刑囚だった」


 オグの一挙一動から目を離さずに、未だ血の気のない顔色をしているジンリンを静かに地に降ろしてやる。彼女はふらつきながらも無事なんとか自らの脚で立つことができた。

 そんなヨウの動きに反応して、一瞬の隙も許さないとばかりに血走った目が再び向けられるが、その両目は様子を窺うのみで、オグは話を続ける。


「ある日、刑の執行日より数日早く牢から出されて、連れられた先は真っ白な手術室だ。そこで俺は白衣の連中に両腕を切り落とされ、頭の中を弄り回され……、次にベッドで目が覚めた時にはこの有様だった」


 ガキン、と重い金属同士がぶつかり合う音を鳴らし、オグは鉤爪をクロスさせて腕を見せ付ける。彼はその巨体をいからせ、この場にいない者たちへ向けた血生臭い殺気を撒き散らしながら声を低くする。


「当然、俺はそこにいる奴らを皆殺しにしてやろうと思ったが、妙なガスを吸わされてできなかった。そこで意識を失う前、確かに覚えていることがある。

「実験成功だ。あとは『観測者』たちからの報告を待つのみだな」、「いくら『観測者』の能力とは言え、禁止区域の壁を突破しないだろうか」と、白衣の奴らが話していたことだ」


 封じられていた記憶を掘り起こすに従い、オグの怒りと殺意は増幅されていく。威嚇するような動作で、腹立たし気に鉤爪同士をぶつけ合いながら、黄色く尖った歯を剥き出しにして鼻息荒く語る姿は、最早人間を忘れた獣そのものだった。


「誰がどういう目的で始めたことなのかは知らないが、ここは実験場で、俺は今実験体だ。

だが、俺は大人しく実験台になってやるつもりはない。ボックスヤードにいる奴らを片っ端から皆殺しにして、どこにいるか分からない『観測者』に見せつけてやる。そして、中央区域の『扉』とやらも抉じ開けて、この俺を好き勝手に弄り回したことを後悔させてやろうと決めた」


 そこで不意にオグの姿が消えた。

 その巨躯からは想像も付かない、姿を消したと感じさせるスピードで、ヨウとの間合いを一気に詰めてきた。狙いはヨウ――ではなく、傍らで青い顔をしているジンリンだ。


 それでも、ヨウの目はオグの姿を捕らえていた。

 間に合う。詳しい思考より先に、体と呼吸が敵の動きにタイミングを合わせて動き始める。


 ウェストポーチのベルト部分に、適当に差していたホッケースティックを抜き放つと、すぐさま両手で持ち手を握り込み、甲高い音を響かせ獰猛な爪を受け止める。ジンリンとの間に割り込ませた金属製のスティックは、嫌な音を立て軋みながらも、オグの怒りを含んだ凄まじい一撃を、彼女を掻き切る寸前のところで止めた。


「この速さと力についてくるか」


 自分の攻撃が止められるとは思っていなかったオグが、感心したように唸り、俊敏なバックステップで再び距離を取る。

 決して攻撃の手を引いた訳ではない。すぐに次がくると、受け止めた衝撃でびりびりと痺れる両手で、唯一の武器を構え直す。


 ヨウは、意識を一点に集中させる。

 世界のすべてがスローモーションになるに従い、集中させた意識が極限まで研ぎ澄まされるあの感覚が蘇る。次の瞬きからは、相手の攻撃の手順が鮮やかに視えてくる。


 巨体に似合わない速度で、再び間合いを詰めてくるオグの攻撃から始まる。次は左からだ。

左方から襲い掛かってくる鉤爪を力の限り弾き返してやれば、力負けする筈がないと信じ込んでいる男は、一瞬だけ動きを鈍らせるだろう。そのチャンスを逃してはいけない。

 見るからに頑丈な頭や胴体を狙うより、まずは疎かになっている足元だ。地にスティックを叩き付ける勢いで、相手の足の裏と地面の間を抉じ開けひっくり返してやろう。虚を衝かれた相手はバランスを崩し、後ろへと転がりそうになる筈だ。


 しかし、ヨウには視えた。オグがすぐに持ち直し、ホッケースティックさえも踏み台にして、宙に飛び上がる姿が。

 物理法則を無視したかのような身軽さで、その巨体は後方へ一回転すると、着地と共に人間離れしたリーチを持つ腕をこちらへ伸ばそうとするだろう。それよりも先に次の一撃を入れなければならない。狙いやすいのは顔面だ。


 今度はこちらから間合いを詰める。敵の懐に潜り込んで大地を蹴り、ぎらつく牙をへし折てやるという意思を持って、その右頬をホッケースティックで殴り飛ばしてやる。飛び散る赤い血と、数本の黄ばんだ歯が飛んでいく様が、ありありと視える。

 相手は痛みと自身の血の色に激昂すると、雄叫びをあげながら、更に激しく強烈な一撃を叩き込もうと、息まいて襲いかかってくるだろう。


 ところが、いくら獣じみていても、彼は本能に任せた狩りをする純粋な獣ではなく、あくまでも狡猾さを残した人間だった。

 オグの狙いはそこで再びジンリンへと戻る。


 ヨウの脇を戦車のように通り過ぎ、一直線に彼女目がけて突進していく姿が視えた。その駆けていく巨体を止めるべく、横から蹴りを入れようとも、彼は少しよろめく程度で動きを緩めることはないことが分かった。

 ジンリンを守るには先回りに全力を注ぐ必要があるだろう。そして、彼が地面を蹴り出すより先に、後方にいるジンリンの元へと戻り、彼女へと向かう殺意と攻撃を堰き止めなければならない。その攻撃は間違いなく、最初に受け止めた一撃よりも威力を増しているだろう。


 そこで突如視界が真っ赤に染まり、何も見えなくなった。

 何も見えないというのに、底冷えするような冷気は全身を覆っていく感覚はある。そして、光のあるところから底なしの暗闇へと放り込まれるように、意識が徐々に失われていくのが分かった。


 一秒にも満たない時間が極限まで緩やかに流れていた。これは時が動き出す感覚だ。

 自分の意思とは関係なく、世界が元の速さを思い出したかのように、ヨウの周りの時間が現実世界に足並みを合わせ始める。


 あれは、最後に視えた光景は、間違いなく自身に訪れる『死』の瞬間だ。

 ヨウはそう理解するが、敵も、動き出した時間も、一瞬たりとも待ってはくれない。

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