第5話 これで殺される恐怖感からようやく解放された

 アウトローというのは、社会的信用が一切ない。あるのは、アウトロー内の地位と信用だけ。それを失った俺は、生きる術を失ったのと同じだ。

 これからどうやって生きていったらいいんだろう。

 実際、ドヤ街には刺青ホームレスなんていうのも結構いる。

 いくら刺青があっても、組の威光のない元アウトローは、ただのおっさん以下の抜け殻である。ああ、なんと悲惨な結末、想像するのもおぞましい。


 そんなことを考えているとき、覚せい剤所持で再逮捕されてしまった。

 今度は、アウトローとしてではなく、一般人としてである。

 もう、アウトロー時代のような豪華な差し入れ弁当もある筈がないが、そのかわり、警察の反応はアウトローのときよりも、優しかったように思う。

 ようやくアウトロー組織の人間というよりも、一人の人間として扱ってもらったという気がする。

 そんなとき、教誨師があってきた。刑務所のなかでは、宗教クラブというものがあり、仏教、キリスト教、般若信教もあるが、俺は興味がなかった。

 あのようなものは、人間のつくったいい教えであり、哲学としては素晴らしいが、信仰の対象ではない。

 この世に神があるなら、どうして麻薬がなくならないんだろう。なんて思ってたくらいである。

 キリスト教の教誨師は、なんとなく余裕があり親しみのもてる人だった。

 さっそく頂いたばかりの、いかめしささえ感じる黒い表紙の聖書のページを途中からパラパラとめくってみると、いきなり次の御言葉が飛び込んできた。

「主である神は仰せられる。私は、たとい罪を犯した者であっても、その人が死ぬことを喜ぶだろうか。彼が悔い改めて、生きるようになることを喜ぶ」

(エゼキエル18:22)

 俺はその御言葉を聞いたとき、なぜかドキッとした。

 俺のような人間は、死刑になっても当然である。

 でもまだ死ぬのは嫌だ。じゃあ、悔い改めなたら、新しい人生が開けるのだろうか?

 俺は、その御言葉が頭のなかでグルグルと繰り返しまわっていた。


「しかし、たとい罪を犯した者であっても、自分の犯した罪を離れ、私のすべての律法を守り、公正と正義を行うなら、死ぬことはなく、必ず生きる。

 彼が犯した過去の罪はすべて忘れられ、正しい生活によって生きるようになる」

(エゼキエル18:21-22)

 

 実際、前科者の行く末は、限られている。

 自営業を始め、成功している人もいるが、それはごくわずかであり、第一、そのような人は、元々インテリか資格を有し、以前も同じ稼業をしていたか、親の後継ぎといったケースが多い。

 俺は、どうしたらいいんだろう。

「私(神)のすべての律法を守って、正義と公正を守れば死ぬことはなく、必ず生きる」(エゼキエル18:21)

 もしそれが、本当ならばこの聖書の神とやらを信じるしか、俺の生きる道は残されていない。

 そうだ、教誨師に相談してみようかな。

 そう思って、俺は教誨師の真似をして祈った。

「天の神様、私は悔い改めます。だから、生きる道を与えて下さい。アーメン」

 そんな祈りを三日間、ひたすら続けた頃だろうか。

 急に声が聞こえてきたのだ。

「藤木竜夫よ。お前は、死ぬよりも私と共に生きるのだ」

 それは、幻ではなく、心身に衝撃となる叫びだった。

 俺はようやく、生きる道が見つかったような気がした。そして、かつて体験したこともない平安に満ち足りた幸せオーラに包まれた感動に似た気分に包まれた。

 まるで幼稚園の頃、おかんの胸に抱かれたときのような安楽な気持ちが、蘇ったようだった。

 そう、俺は神と共になら生まれ変わることができるかもしれない。


 教誨師から、一冊の本を渡された。

 タイトルは「愛されて許されて」元アウトロー牧師の書いた実話である。

 エピソードには、私の半世紀というよりは反省記をご披露しますとあった。

 中学のとき不良グループの下っぱから始まり、高校時代、タカリまがいのことをしでかして、警察に通報された。

 警察は、学校には通告しないといったが、結局は通告されたことがきっかけで中退し、ある組のアウトローから親切にしてもらったことが原因で、そのままアウトロー世界に入ったが、最後は借金を抱えリンチを受け、逃亡生活を送った末、クリスチャンのホステスと知り合い、信仰をもって牧師になったという、俺以上にすごい経歴が包み隠さず、克名に明記されていた。

 しかし、ここまで書いていいのか? 他人事ながら心配になるほど、自分の恥も、組から受けた壮絶なリンチも明記されている。

 なんて勇気ある元アウトロー牧師だろう。殺されることを恐れてはいないのかと思うほどである。

「私(神)を信じる者は、たとい死んでも生きる」(聖書)

 それとも、神がいるからたとえ殺されても、アウトロー時代のようにのたれ死にではなく、殉教だと覚悟しているのだろうか。

 もしかして、この本も殉教の一種なのだろうか。

 俺は、その元アウトロー牧師に会ってみたいと思った。


 教誨師を通じてその牧師―菅田牧師というのだが、初対面の印象は、本当に元アウトローかと疑うくらいに、温厚な表情をしていた。

 アウトローを辞めた人は、命を狙われる危険性もないし、また逆に人の命を狙うこともないので、ニコニコ笑顔満載というが、まさにその通りである。

 しかし、キリスト伝道に賭ける情熱は、並々ならぬものがあると、ひしひしと伝わってきた。

 菅田牧師の著書「愛されて許されて」のラスト部分には、

「神様は、最初から私にキリスト伝道をさせるのが目的で、不良からアウトローの道を歩ませることをお許しになったのではないか。

 自分勝手に生きてきたつもりだが、神によって守られてたに違いない」

 

 俺も菅田牧師のようになりたいと思った。

 俺は、菅田牧師に隠しておきたい、いや隠すべき今までの過去を洗いざらい話す気になった。

 この人なら、こんな俺でも受け入れてくれそうな気がする。

 菅田牧師は、別段驚くことも、呆れることもなく、隠しておきたかった俺の話を淡々とした調子で聞いてくれていたが、意外だったと同時に、今までの人生を受け入れてもらったような喜びさえ感じた。

 似たような体験をしてきた、同類のアウトローといってしまえばそれまでだが、やはりアウトロー同志でも競争心はあるものだ。

 こいつよりも、俺の方がまだいくぶんましであるとか、こいつの二代目にならず救われたとか。

 しかし、菅田牧師にはそのような競争心のようなものは、みじんも感じられなかった。もうそういったアウトロー時代の感情は、神によって清められたに違いない。

 

 

 


 

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