第3話 私はなるべく彼に逆らわない方針を取りました。私は氷を日向へ出して溶かす工夫をしたのです。今に融けて温かい水になれば、自分で自分に気が付く時機が来るに違いないと思ったのです。

神田に通いだして何度目かの道すがらに、古本屋から出てきたKと、Kは失礼だな、小坂君とばったり会った。私たちは成り行きで、小坂君とゆっくり歩きだした。


「帝大に行ってるK君?ははーん、宗教学が専門なんですって?」


珠ちゃんは興味津々らしい。私は家では猫を何匹かかぶって、おとなしく暮らしているので、ひやひやしながら成り行きを見ていた。大体の近況は報告済みなので、、、


下宿人の夏木君は帝大生で金持ちで、ちらちら自分を見てくること。

夏木君が連れてきたK、小坂君は無口で勉強ばっかりしていること、とか、、、


小坂君は苦労してきたので、なるべく話しかけてあげてね、とか言われていることとか、、、ついでに、母親が、金持ちの夏木君を気に入っていて、なにかにご機嫌を取って、私に夏木君の世話をさせようとしてることとか、、、めんどくさい、、こと。


「机上の学問だけで、解った気になっている学士様のなんと多いことか!!」

(た、、珠ちゃん、、、)


「・・・・・」


「私たちこれから、神田の教会で奉仕作業をしに行くの。あなたもいらしたら?

机上の学びがすべてではないでしょう?」


「・・・・・」


小坂君は驚いた顔を私に向けたが、、、何せ、私は神田にはお琴とお華を習いに行っていることになっているので、、、珠ちゃんに向き直って、頷いた。


成り行きで、私たち3人は連れ立って、カトリック教会で奉仕活動をすることになった。小坂君は男子だ、ってとこを買われて、孤児院の壁の補修やペンキ塗りや、教会の隣に作られた畑の収穫やらを、大きな子供たちと楽しそうにやっていた。結構なつかれている。シャツの袖をまくり上げて、汗だくでやっている。ここ何年も床屋に行っていないであろう長い前髪と、結んだ長髪が暑苦しそうだ。


私たちは子供たちの洗濯物を片づけ、夕食の準備を手伝っていた。大きな籠にとれたて野菜を持って台所にあらわれた小坂君は、中々の好青年に見えたりした。ちょっと、ね。


お祈りをして、子供たちとシスターと一緒に、夕食に呼ばれる。ささやかな晩餐。

みんなで後片付けをしてから、礼拝所の隣の部屋で英会話教室が始まる。


たわいもない、英検準2級の私でもついて行ける程度の日常会話。

そう、、、私の暮らしていたところは地方の片田舎だったので、TOEICに憧れていたけど、試験会場が遠いので、英検しか受けたことがない。あはは、、、


今日はこんなことがあった、とか、、珠ちゃんは道の途中で小坂君を誘ったことを告げると、自己紹介するように言った。


小坂君は女学生がシスターと英語で会話していることに静かに驚いていたようだが、、、

自分は寺に生まれたこと。浄土真宗だということ。キリスト教についても学びたいこと。いずれはイスラム教についても学びたいこと、、、などを静かな声で話し出した。さすが、帝大生は英語はなせるんだなあ、、、


母親が早くに亡くなり、継母に育てられたが、養子に出されたこと。養家で医者になるように言われたが、今は宗教学に興味があって、学んでいること。


そうか、、、あんまり話さない人だなあ、と思っていたけど、英語なら話すんだなあ、、、


シスターが流暢な英語で小坂君に向かって話しかけていた。さすがに私には聞き取れなかった。


7時近くまで話し込んだが、お開きになった。帰り道、珠ちゃんが、


「私もそう思うわよ。」


と、言って、お迎えの車に乗り込んだ。小坂君は軽く会釈を返し、無口なK君に戻ってしまった。

私たちは薄っすらと明るい夕暮れの中を並んで歩いた。


「え、と、、シスターが話していた長文が、私の英語力では聞き取れなかったんだけど?」


「え?」


「小坂君に、なんて言ってたの?」


「・・・・・」


「で、珠子様は、何を?そう思う、なの?」


「・・・あなたの親は、あなたを疎んじて養子に出したんじゃないと思う。才能を埋もれさせるのを惜しんだんじゃないのか。仏様の教えは深くはわからないけど、その才能を、弱いもののために使ったらどうか、、、」


「ふーん、、なるほどね。で、私もそう思う、なのね。」


「・・・・・」


「また行こうね、教会。楽しかったでしょ?珠ちゃんも。」


「・・・うん・・・」


それから私たちは3人で頻繁に教会を訪れ、奉仕活動をし、英会話を楽しんだ。小坂君は神父様と宗教についての論争を交わしたり、、、珠ちゃんと現在の社会体制についての論争をしたり、、、少しずつ笑うようになってきたような気がする。


「女学生は、、華や琴や、縁談のことばかり話しているものと思っていましたが、、、」


「ん?」


「違うんですね、、、」


「あら、ほとんどの学友さんたちはそんな感じよ?どこそかにお輿入れが決まった、とか、お見合いで会ってみたら20歳も年上だったとか、お金持ちだとか、結納金はいくらもらったとか、着物買った、とかね。」


「そう、ですか、、、お満さんは?」


「あ?私?私はほら、お父様がいないので、この時代、いい縁談は望めないわねえ。

そのうち、母の気に入った人に、嫁に出されちゃうのかな、、、」


「他人事みたいに言うんですね、、」


「そうねえ、お裁縫が好きだから、洋裁のお仕立てで食べていければ楽しいだろうけど、なかなねえ、、、」


「ふふっ、面白い人ですね、あなたは、、」


「あら、小坂君もなかなか面白いわよ。」


私たちは顔を見合わせて笑った。いいやつだなあ。


日曜日には礼拝に行く約束をした。夏木君の視線がうるさいので、別々に出かけて、教会で合流した。


「仏さまは怒らないのか?」


と、珠ちゃんの質問に、


「敵情視察ですから。」


と、笑って言えるほど、小坂君は打ち解けていた。

帰りも別々に帰った。夏木君が最近何かと詮索するので、面倒ごと回避のため。


勉強中の小坂君にお茶を持って行ったついでに話し込んだり、、、彼は勉強家だったので、話は尽きなかった。私の小、中、高校の薄くて広い学習が役に立った。

日本史、世界史、数学、生物学、天文学、社会学、、、話は尽きなかった。


なるべく夏木君が居ない時に話に行っていたのだが、話し込んでいるうちに帰ってきてしまったりする時は、、笑ってごまかしておいた。


夏木君が家に居るときは、部屋にこもって、珠子様の入学式用のワンピースを縫うことにしている。祖母の紋付をほどいて、黒地に白の襟を付けたワンピースにしよう。

ファスナーを小間物屋で探してみたが、まだこの頃では出回っていないらしい。まあね、ゴム紐が無い位だからね、もう、驚かないけどね。


母親は華族のお嬢様と付き合いがあるのをとても喜んでいた。金持ちが好きだから。

しまってあった祖母の形見の着物や亡き父の軍服まで、気前よく出してくれた。使えそう!


「夏休みはどうするの?ご実家に帰るの?」


「・・・夏木に、、房州に誘われている。勉強したいんだけど、、、」


「海かあ、いいねえ!夏休み、って感じだわね。」


「君は?」


「私は女学校卒業になっちゃうし、珠ちゃんは入学準備で忙しいだろうしねえ、、教会で草むしりでもしながら、、、子供たちに簡単なワンピースを作ってあげようかなあ、って思ってる。もちろん、男の子には半ズボンね!」


「ふふっ、それはそれで、楽しそうな夏休みですねえ」


「でしょ?小坂君も楽しんでいらしてね!」





真っ黒になった夏木君と小坂君が返ってくる頃、珠ちゃんにあげるワンピースも完成した。子供用も!


私たちは何食わぬ顔をして、また教会で待ち合わせをして、近況を報告しあった。


小坂君は子供たちを呼んで、手ぬぐいで出来た袋から貝殻をぱらぱらと出した。巻貝、二枚貝、キラキラした貝の破片、つるつるのガラス片、、海のにおいがする。


「お土産だよ」


子供たちは大喜びで、それぞれ気に入った貝をもらっていた。いいやつだなあ。


珠ちゃんは津田塾入塾の準備に追われ、ついでに、通学のために自転車に乗る練習をしていたらしい。この時代の自転車は高級品です!はいからさんだわ!


私は珠ちゃんのワンピースと、孤児院の子供たち用のワンピースと半ズボンを作って過ごした。生地は珠ちゃんが自宅の夏用のカーテンを提供してくれた。きれいなブルー。ミシンが欲しい!と、何万回思ったことか!!ちくちく手縫いしました。


珠ちゃんと子供たちは早速着替えた。黒の生地のシンプルなデザインのワンピース。

やや長めのタイトっぽく仕上げた。襟は白の羽二重を使って、ふんわりと。

長ズロースも忘れずに作った。うん。


「いいねえ!お満さん、ありがとう!」


「・・・いやいやいや、、、珠ちゃんぐらいだと、オートクチュールだろうけどねえ、、、」


子供たちもお揃いのワンピースと半ズボンに着替えてくれた。みんなでくるくる回っている。ああ!いい夏休みだった!


「・・・いい夏休みだったようですね。」


笑みがもれてしまう私の横顔を見て、小坂君がつぶやく。


「はい!そのうち、小坂君にも何か作ってあげますからね!」


八月も中旬を過ぎると、日暮れが少し早くなる。吹く風も涼やかだ。

ひぐらし?東京なのにひぐらしかあ、、、


珠子様はそのままフランス語を習っていくというので、私と小坂君はお暇することにした。子供たちがいつまでも手を振ってくれる。

教会も子供たちも見えなくなったあたりで、小坂君が足を止めた。


「え、、と、、これを、、」


シャツのポケットからハンカチを大事そうに取り出した。


「ん?」


「君に、、おみやげです。」


そっと渡されたハンカチを広げると、小さな薄紅色の桜貝がひとつ。


「ありがとう!きれいね!大事にするね。」


「・・・・・」


つややかな小さなちゃんと対になった桜貝は、表情が読み切れない小坂君と同じ色だなあ、と思った。

続くといいなあ、、こんな穏やかな日々が。



*****



ある日、僕はいつもよりずっと遅れて帰宅した。なんと、Kの部屋からお嬢さんの話声がする。Kの部屋を抜けようとすると、二人は座っていた。奥さんは?奥さんは僕とお嬢さんを家に二人きりにしたりさせなかったのに!お嬢さんは笑った。こんな時に!


僕はKが奥さんやお嬢さんをどう見ているか知りたかった!

「女学生は、何にも知らないで卒業する子もいるんだねえ。」

とKは言った。

「女の価値はそんなところにない。裁縫やお華やお琴を稽古しているだろう!何にもわからないんだな!」

そんなこともわからないKを僕は笑ってやりました。


僕は夏休みに海に行こうとKを誘った。

「行きたくない」

「なぜ?」

「勉強しているよ」

僕は、奥さんやお嬢さんがKと親しくなっていくのがいやだった。自分が希望したにもかかわらず!東京にKを残すのが嫌だった。

むりやり二人で海に来ましたが、隣にいるのがお嬢さんだったらどんなにいいだろう、といつも思いました。

ああ、Kもそう思っていたら?僕がお嬢さんを愛しているのをこいつは気が付いていないのか?今まで何度も、Kにお嬢さんが好きなのだと打ち明けようとしたが、できなかった。

どこか間が抜けていて、それでどこかにしっかりとした芯をもったK。

容貌もいい。

学力もずば抜けている、、、僕は落ち着かない。親しみと憎しみの中でぐるぐるするしかなかった。


海から帰ると、奥さんとお嬢さんでなんだかんだと世話を焼いてくれた。僕に。

Kより、僕に!僕は満足した。












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