第5話 元上司

異動辞令が出て1週間が過ぎ、

そろそろ単身赴任で北九州で生活をする

賃貸マンションを探そうと賢治は動き始めた。

会社のPCを開き、北九州支社がある小倉北区の賃貸物件を

重い気分で検索する。


隣のデスクに座っているはずの東山は、

辞令発令以来ずっと一人ストライキを決め込んでいる。

色々と業務が滞るので、彼の携帯に電話をかけてみるが

ストライキ中なので当然のように電話に出ない。

「俺も、東山みたいに思い切って拒否ってみたいよな。

でもそれは俺の美意識が許せんよな。」


 賢治は、望まない状況から雲隠れをするという行動が、

彼の中の美意識に反すると思っている。

とにかく現実から逃避することが、格好悪く思えてしまうのだ。

「逃げ恥」の如く現実から逃げてしまえば良いものを、

その行為は敵に背中を見せるようで、彼独特の武士道精神に反する。


 本来なら、出社拒否に繋がりかねない心療内科での診察は

遠慮したいところだが、会社からの命令とならば仕方なく、

今日の午後1時からの診療室での心療内科のドクターからの診察を

賢治は受けなければならなかった。

「普段から自分でも自分の魂というか、心の声に疑問を感じる節があるので

一度専門医に診てもらうのもおもしろいかもね。」

賢治はまるで他人事のような気分で診察を受けてみることにした。


確かに賢治は、どこからともなく湧き上がってくる

得体の知れない感情について、時々恐怖さえも感じていた。

その怪物は、厳粛な状況などになると余計に、

夏の夕立前の入道雲のようにムクムクと大きな姿を現し始め、

ついにはその感情を抑えることが出来ないほどに巨大になるのだ。

いつもこの迫ってくる感情はなんなんだろうかと

疑問に思っている。


今日の診察でその原因を究明することが出来るかもと

興味すら感じていた。


 いつものように会社の社員食堂で、

みんなが食事を摂る午後0時より30分ほど早く、【早飯】を摂る。


 賢治にとっては昼食はなんでもよい。

基本グルメではないのだが、特に昼食はただ空腹感を満たすだけで構わない。

昼食を摂るためだけに、会社の外に出て、美味しくて有名なラーメンや、

つけ麺、インスタ映えするパスタなどにありつくためだけに、

長蛇の列をクリアーしようとは思いもしない。


ここまで食に味を求めなくなったのは、恐らくあの高校時代、

一番食欲もあり、多感な3年間をまるで監獄のような寮で

過ごしてきたからだろう。

  

 今回の異動で昇進を果たした社員が

社員食堂で自慢気に話している姿を避けて、味気ない肉そばをすすり終えた。

「この会社で出世している奴らってどういう手柄を立てたって言うんだろう?」

賢治は毎回この時期になるとそう考えてひとりごちるのだった。

今となっては、ほとんどこの時期の風物詩になってしまった感がある。


自分の机についてしばらく引越し先をネットで探していると

午後1時近くになった。


 「それじゃあ、俺の内なる真理を先生に透視してもらうか。」


賢治は診療所があるこの放送局の最上階に行くために

エレベーターに乗った。

そのエレベーターには、賢治の元上司が乗っていた。

賢治が30代のころ北九州支社の営業部で部長をやっていた上司だ。

賢治の決定力をいつも当てにしていて、

他の部員では契約を獲ってこれないところがあると、

いつも担当を変えて賢治を投入し、契約を決めることが出来たら

ご褒美と称して賢治を九州一の繁華街「中洲」に

契約を獲った先の広告担当者を招待して、

飲ませ食わせの接待をするというだけの

見せかけの仕事しかしてこなかった男だ。

この上司の役割といったらその場に同席して

「この中野はまだまだ至らないところがありますが、

どうぞよろしくします。」と言って、スポンサー相手に部下思いを演出しつつ、

結果上司面をするだけだった。


 その下衆部長は、その接待で食事をしたあとは決まって

今となっては死語となった「クラブ活動」とやらにスポンサーを連れ出して、

クラブのホステスにお客を連れて来て大金を落としてくれる

放送局の営業部長という得点稼ぎをしたいだけだった。

キャストを侍らせてカラオケをして、

賢治とスポンサーに歌わせるだけ歌わせて

本人は指名をいれた女の子と話しているだけ。

「部長も一曲どうですか?」とスポンサーに促されても

一度もマイクを握ったことはなかった。

 間違いなくかなりの音痴にちがいないと誰もが隠れていっていた。


賢治のあとに北九州に送られてきた使えない営業マンたちを先に異動させ、

ディレクターになりたいと懇願する賢治の願いは叶えることなく、

北九州営業部の営業数字を賢治に上げさせるだけ上げさせて、

このインチキ上司は手柄を独り占めして本社に戻っていった。

結果平の取締役までにはなったが、

その時点でメッキが剥がれまくり、関連会社の社長に落ち着いていた。

それでも賢治にとっては、この提灯持ちの経歴は

羨ましいキャリアにちがいなかった。


「中野じゃないか。お前また北九州支社らしいな。

もう若くないんだからあの頃みたいにムチャすんなよ。」


「なんだ?このメッキ野郎は。」賢治は内心では毒づきながら、

「もういい加減やめてほしいですよ。もう若くないんで、

正直きついです。でも宮仕えの身だから仕方ないですね。」


「お前も出社拒否してみたらいいんじゃない?」と笑いながら返してきたので、

このゲスが若い頃大阪支社で上司に虐められて

出社拒否をしたことを知っている賢治は

「出社拒否とか、そんな男として恥ずべきことはさすがにできませんよう。」

と皮肉たっぷりに返してやった。


賢治はこんなタイプの上司には絶対にならないと誓っていた。

人の褌で相撲をとっているくせに、

自分は上司である!と見栄ばかり貼っている上司。


心から軽蔑する人種だ。


一度、こうゆうことがあった。

ある広告代理店の新年会での出来事だ。

その代理店の担当をしている賢治の後輩に、この上司が

日本酒の一気飲みを強要し。酒がそれほど強くない後輩は

一気飲みのあと意識を失った。

救急車を呼ぶ羽目になり、賢治もその後輩に付き添って救急車にのった。


その後輩は、案の定「急性アルコール中毒」と診断されたが

死に至るまでの重篤な状況にはならずに済んだ。


この緊急事態に、一気飲みを強要した当の上司の姿はなかった。


後輩の容態を確認し、賢治は救急病院を離れ

その上司に報告にいった。


しかし、現場となった宴会場に行ったときには、その上司はおらず

その上司と同期入社の賢治にとっては先輩に当たる女性社員だけが

心配顔で宴会場に残っていた。


「あれ、部長はいないんですか?」

「中野くん、君の後輩は大丈夫だった?」

その部長の同期の社員は、「部長は、かなり心配されていて、泣いてたのよ。

大丈夫だったら大丈夫だったで早く連絡くれないと!」と賢治を叱責した。


「部長が泣いていたのは、後輩の容態を心配していたわけではなく、

もしものことがあったら、自分の華々しいキャリアは途絶えることになる

と心配になって戦慄いていたんだよ!

この女はそこんとこ履き違えてるんじゃねえかよ!」と

賢治は怒りの感情に包まれると同時に、この上司のしょうもなさに

呆れ返ったのだった。


 「この放送局はこんな輩たちが出世している会社なんだよ!」

と元上司がエレベーターから出るより先に、

この全く尊敬出来ない元上司と同じ空間にいることが我慢できない

といった様子で、飛び出した。




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