第2話 事件編その二

 チャイムが鳴った。

 びくりと反応する。それは殺人鬼も同じだった。

 しばし静寂。犯人と私。微動だにしない。

 ドアを叩く音。

「稲村さん。いますか? 稲村さん」

 聞き覚えのある声。

「稲村さん?」

 西島の声だ。

 私は声が出ない。だが生存をかけた一縷の望みだ。悶える。声を出す。どうせ聞こえは、しないだろうが。

 犯人の挙動に色が出る。焦っている。狼狽えている。

 動く。おそらく逃走経路を想定していたのだろう。犯人は真っ直ぐにベランダを目指した。

 私の部屋は地上五階だ。そう簡単に抜け出せるところじゃない。これで犯人も……とは、ならないかもな。私の中の冷静な部分がそう告げた。冷えている場所はペニスくらいのものだったが、しかし抜け目なく私を追い詰めた犯人だ。きっとだが、そしてそうあってほしい面もあるのだが、簡単には捕まらない。そんな気がしていた。

 犯人が窓を開ける。風が吹き込み私の体を冷やした。と、同時に玄関のドアが開けられた。マンション廊下の明かりがリビングルームに差し込み一瞬だが明るくなる。すぐさま人影がその明かりを遮り、廊下を含め私のいる部屋までもが暗闇に包まれた。西島の声が聞こえる。

「稲村さん」

 さすが本職。落ち着いた対応である。ゆっくりとリビングのドアを開け、中にいる敵を警戒しながら私の安否を確認する。連れの警官が周囲の安全を確保し、開かれた窓を見る。

「逃げたようです」

 警官の声。私は猿轡を外される。

「大丈夫ですか」

 西島。私は唸る。下半身丸出しで。

「顔を見ましたか?」

「いいえ」

「侵入経路は?」

「分かりません」

「男性か女性かくらいは?」

「分かりません」

「身体的特徴などは?」

「フードをかぶっていたことくらいしか」

 この間両手が縛られているので当たり前だが下半身は丸出しである。

「帰りがけにお声をかけていただいてよかった」

 今日、西島と永場さんが私の研究室にやってきた時。

 二人の帰り際、西島さんにこっそりと私の部屋の合鍵を渡しておいたのだ。自分がワコールのブリーフの愛用者であることも告げた。襲われる可能性は低いだろうが、しかし万が一ということもある。私がかけておいた保険は功を奏したというわけだ。こうして西島が、私の命を救ってくれたわけだから。

 拘束を解かれる。縄ではない。結束バンドだ。縄よりやや足がつきにくい。縄はホームセンターの類を当たらないと手に入らないが、結束バンドはそこら辺の百均でも売っている品だからだ。ホームセンターの数と百均の数を比べれば、おそらく首都圏近郊に限れば、百均の方が多いだろう。つまり手がかりとしては弱いのである。

「何か凶器を持っていましたか?」

「ハサミを」

「何かされませんでしたか?」

「拘束され、ハサミで脅迫されたこと以外には特に何もされていません。声もボイスチェンジャーか文章読み上げアプリを使っているような声でした」

「床に散らばっているこれは……」

「……お恥ずかしい」

 私のコレクションを見られてしまった。壁尻コレクション。女性の下半身のコレクション。近くにいた警官が軽蔑するような目を投げてくる。この間相も変わらず下半身は丸出しである。

 自由になった手でとりあえずペニスを隠す。何だか久しぶりに下半身を隠したような錯覚に陥った。

「犯人に目をつけられるような心当たりは?」

 しばし考える。

「ありません」

 本当に心当たりがない。

「……駅は?」

 やはり。想定していたことを聞かれる。

「豊洲、浜松町、品川、今日はどれも使っていません」

「以前は?」

「どれくらい前ですか?」

「それは何とも……」

 お互い言葉に困る。やがて、西島が意を決したようにつぶやく。

「護衛をつけます」

「いえ」私は手を挙げる。「一度失敗した相手を狙うとは思えません」

「そうとも限りません。空き巣は連続して同じ家を狙うことがあります。セキュリティが甘いことが分かり切っている家だからです」

 一理あるし、そういう研究論文を読んだことがある。素直に頷く。

「それでは、お言葉に甘えて」

「手掛かりがありました!」

 窓の外、ベランダに出ていた警官が叫ぶ。

「雨樋の埃が綺麗になくなっています。おそらくここを伝って逃走を試みたのかと」

「雨樋を伝える? 体重が軽い……?」

 西島の言葉に私は返す。

「問題の雨樋をこの階から一階まで一通り調べることは可能ですか?」

 人間としての尊厳を取り戻した私は淡々と告げる。

「雨樋を伝った、とは言っても、一瞬だけ捕まるのとずっと下まで降りるのとでは耐重限界も変わってくる」

「調べさせます」

 西島が数名の警官を手配する。

「この辺りはマンションやアパートも多く、障害物が多いです。真っ直ぐには逃げられないと思います。どこかに潜伏しているかもしれません。周囲を徹底的に捜索しましょう」

 血気盛んそうな一人の警官が西島にそう提案してくる。西島は少し考えるような顔をすると、小さく頷いた。彼の一存で応援が手配されることになった。にわかに現場が騒がしくなる。

 しばしの間、私の部屋を見渡した西島が再び訊ねてくる。

「本当に心当たりはありませんか? 襲われる理由について」

「ありません」私は繰り返す。「ワコールのブリーフを履いていること以外は」

 そう。これこそが最大の問題なのである。

 何故私がワコールのブリーフを履いていることが分かったのか? 

 西島も首を傾げる。

 私は今、西島がどんなブランドの下着を履いているのか、当然ながら、分かるわけがない。

 しかし犯人は私が履いている下着のブランドはおろか形状まで分かった。

 一体どんな手を使ったのか? 



 ワコールのブリーフの特徴について考えてみる。

 一般的なブリーフはV字ないしはY字だろう。しかし私の履いているワコールのブリーフは比較的大きく作られているというか、下腹の辺りまで覆う設計になっている。ハンロという商品だ。他のワコールブリーフが大体千五百円から三千円台をうろつくのに対し、ハンロは六千円台である。高い。故に目立つか、と言われるとそういうわけでもなく、本当に下腹の辺りまで覆える白いベーシックなブリーフなのである。識別ポイントとしては「下腹まで覆えるか?」しかないのだがそんなことは服の上からでは絶対に分からない。つまり、ズボンを脱いだ瞬間を目撃できる人間に限られてくるのだ。

 壁尻バーにはこのところ行っていない。西島に釘を刺されたからだ。おそらくだがあの店自体もうやっているか怪しい。私にとっては貴重な店だったのだが、人生に傷をつけるわけにはいかないので仕方がない。先のウェディングドレス殺人事件の写真が残っているのでそれで満足していた。当然ながらオナニーである。個室ビデオ店にすら行っていない。故に、私は人前でズボンを下ろすことは皆無だったと言っていい。

「その男性がワコールのブリーフを履いているか?」

 この命題にアプローチできる人間を特定できれば、あるいは解決策が見つかるかもしれないが……。

 西島に調べてもらった。

 被害男性九人の内四人が風俗などに行ったことがある人間だった。その内一名が風俗通いをしていたが残りの三名はこの半年間風俗に行った形跡は見つかっていない。もちろん見つかっていないだけだし、この手の話はいくらでも隠しようがあるので信憑性があるかと言われると首を傾げるしかないところはあるが、少なくとも優秀な日本の警察が調べた範囲では見つからない情報だった。他五人は風俗はおろかキャバクラにも行ったことがない人間だった。不倫などの案件を一通り当たってもらったが後ろ暗い経歴を持つ者はいなかった。全員クリーン。これはこれで珍しい。つまり、「パートナー以外に下の事情を知る人間がいない」ことになるのだが、私の場合のように「パートナーがいない」人間もターゲットになっている。「パートナーがいないかつ風俗などに行ったこともない」人間もいて、要するに特徴がない。バラバラである。

 頭を抱える。自分もターゲットになった以上、本腰を入れてこの事件を解決せねばならない。

 しかし何もできないまま数週間を過ごした。この間私はひどく怯えながら過ごした。暗い夜道、周りに自分一人しかいない時、とにかく怖かった。レイプ被害に遭った女性がかくも怖い思いをしているのかと思うと哀れだったが、それはそれ、と割り切る自分もいた。要は、私は私が危ない目に遭ったから同じ状況を避けているだけで、よその女がどうなろうと私の知ったことじゃないのである。私は私の身がかわいい。それだけである。当たり前の話だ。自分の経験を元に同じ境遇の人を救おうなんてことを考えるほど私は馬鹿じゃない。そんなことを言い出したら私は児童虐待への反対活動もしないといけないし、過酷な学歴社会への反対、男女不平等への反対、動物虐待の反対、食品衛生上の問題に対する反対、様々な案件に首を突っ込まなければいけなくなる。私は一人しかいない。私は私にできることしかしない。もっと厳密に言えば、私の価値基準で私のリソースを割いていいいと思えたものにしか尽力しない。レイプ被害に遭ったから、その女性は夜道が怖くなった? お気持ち察しますとしか言えない。

 西島の宣言はどうやら生きているようで、私の周りには常に護衛がついているようだった。西島は日報を送ってきた。今日は二人の刑事がついています。今日は一人の警官、今日は三人、そんな具合である。彼らも犯罪検挙のプロだ。きっとガードマンのように「守っていること」を誇示して敵を近づけない方針をとるよりは、私を餌にして犯行に及ぼうとした犯人を捕まえる方針に出るはずである。それでいいし、それに賛成だった。確かに我が身はかわいいが、守ってもらえるなら可視不可視はどうでもいい。アンチウィルスソフトが見えないと不安か? 君は常にNortonを立ち上げているのかね? 

 西島の手配した、私の自宅周辺の捜索網も空振りに終わった。障害物が多いから、犯人も真っ直ぐには逃げられない。どこかに潜伏しているだろう。そんな予想は大きく外れた。周囲一・五キロにわたって六十名近い警察官が徹底的に調べて回り、検閲なども行ったが犯人はおろか手がかりも得られなかった。捜索失敗、である。

 そんなある日、永場に呼ばれた。先日私の研究室にやってきた小柄でいい尻をした女刑事である。場所は伏せるが都心のジム。どうやらプライベートでの接触のようだった。仕事が理由の接触なら警視庁に呼び出すか近隣の警察署に呼び出すだろう。何事だろう、と少し身構える。

 向かったジムはどうやらトレーニングやボルダリングを行うようなジムではなく、器械体操やダンスなどを練習するジムのようだった。マットに跳び箱、ポールやロープ、鏡などが設置されている。

 受付に行き、永場の名前を出すと私はジムの中に通された。動きやすい服装の人間が多い中、スーツを着ていた私はひどく浮いていた。

「稲村さん」

 息を上がらせた永場さんが、跳び箱の近くからやってくる。

「急に呼び出したりしてすみません」

「いえ」私は短く答える。「ご用件は」

「プライベートで話したいことがあって」

 強い目。どうやらかなり大きい案件のようだ。

「休憩スペースに行きましょう。何か飲まれますか?」

「いりません」

「それじゃあ」

 私は永場に連れられてジムの休憩スペースへと向かった。ガラス張りの喫煙所のようなスペースで、自販機が二つ。背もたれのない長椅子が二つ置かれていた。ドアを開け、休憩スペースに入ると、永場は自販機でスポーツドリンクを買った。私は立ち尽くしていた。

「正直にお話ししていただきたいです」

 単刀直入、だった。

「性犯罪に手を染めたことは?」

「ありません」

 脳裏にあの女がよぎる。安西真琴。壁尻殺人事件の犯人して、私がレイプした女。

 すると案の定、永場があの女について触れる。

「……安西真琴は?」

 沈黙する。

「彼女がレイプ被害を訴えていることはご存知ですか?」

 何も答えない。

「事件の異常性から、彼女自身のレイプ被害はあまり取り沙汰されませんし、無視されてさえいるのですが、私は古くから彼女を知っていまして」

 なるほど。私は微笑む。同僚か、あるいは同期か、先輩後輩か……。何にせよ近しい人間だったのか。

「真琴は確かに出来の悪い子でした。そのくせプライドが高くて他人の成功を素直に喜べなかった。でもそれは彼女の悪い一面であって、全てではなかった。彼女は手先が器用で、話を聞くのが上手くて、同僚想いの、そんな一面もある子だった」

 何が言いたいのかは分かった。気が変わったことを示すために私は彼女の隣に立ち、自販機を操作する。缶コーヒー。嫌いではない。

「……真琴の話が事実なら、私はあなたを許さない」

 スポーツドリンクを手にした永場が私を小さく……本当に、微かに……睨む。いい女だ。こういう女を屈服させて壁にぶち込み、尻を犯したい。たまらない。たまらない。

 永場は唐突に話題を変えてきた。

「ブリーフ殺人事件の被害男性について当たりました。共通点が見つかった……いや、これはオフィシャルではありませんが、私は見つけた」

 永場の方を見る。驚くべきことである。私や西島が探りに探って見つからなかった共通点を、彼女は見つけたと言っている。被害者の利用交通機関について統計的アプローチをとったり、独特の視点を持つことで犯罪捜査をしていくような彼女のことだ。きっと何か、面白い発見を口にしてくれるに違いない。

「どの男性も、大なり小なり、性犯罪に手を染めていた」

 永場が今度はハッキリと私の方を睨む。ほう。被害男性の性関係については一通り調べてはいたのだが、もしかしたら捜査の手が及ばない可能性のある領域である。

「一人目」

 私を睨んだまま、永場が話す。

「痴漢です。通勤電車で女子高生を触っていた。複数ではありません。一人です。一人の女子高生をずっと、連続して痴漢していた。そしてある日、脅迫して路地裏に連れ込み、性行為を強要した。それからほぼ毎日、女子高生に性的行為を強要していたそうです。泣いても嫌がっても、むしろそれを喜んで、行為に及んでいたそうです。女子高生は被害を訴えようとしましたが、しかし大事になる前に女子高生に現金を渡して封殺し、沈黙を強いた。女子高生の家庭は金銭的に厳しい家で奨学金の返済などが滞っていたことから女子高生はそのお金を受け取り、代わりに自身が受けた辱めについて沈黙することを選んだ。でも耐えられるものじゃなかった。女子高生はある日飛び降り自殺をしています。日記から性被害を匂わせる文章が見つかっていますが決定的ではありませんでした。故に大きく取り沙汰はされていませんが、被害女子高生の家族は性被害を確信しているそうです。ご家族が日記を元に興信所を頼り、加害男性を調べさせたところ、金を握らせ、事態を大きくしないよう動いていたのは間違いなく一人目の被害男性だったそうです」

 二人目。永場は続ける。

「セクシャルハラスメント。社長という立場を利用して秘書の女性に性的な行為を強要していた。仕事の立場や給与面を脅しに使われていたから、秘書の女性は事を大きくできなかった。これも当人に聴取をすることで明らかにしています」

 私は缶コーヒーを開けた。解き放たれるような微かな音が、一瞬。

「三人目。路上で痴漢。道行く女性に抱きつき胸部や陰部を触って逃げていたそうです。こちらも被害女性が訴え出なかったので表には出ていませんでした。しかし被害女性全員に当たるとどなたも三人目の被害男性の顔に見覚えがあると証言しました」

 証言ね。実はあまり頼りにならない手がかりである。記憶は簡単なことで影響を受け、改竄されるし、情報の提示のしようによっては歪んだ情報を目撃者は吐く。なので永場の主張にはイマイチ頷けないところがあったのだが、それはまぁ、ひとまずいいとしよう。

 そんな調子で延々と九名、性犯罪の経歴が明らかになった。多くは痴漢。電車だったり、路上だったり。車で拉致して蹂躙した挙句山道に捨てるなんてことをしている奴もいた。残りはセクハラ。雇用関係だったり、顧客関係を悪用してのセクハラ。笑える話だが、旅館で混浴を強いられた上に体に落書きされ裸踊りまでさせられた女がいたそうだ。傑作だね。そういうセンスが好きなんだ、私は。

 どれも表には出ていない。性犯罪の特徴だ。被害者が沈黙することで顕在化しない。これは女性が被害を受けた場合に限らない。男性が被害に遭った場合、いやむしろ、男性が被害に遭った場合の方が黙秘される傾向にある。もちろん表に出ていない案件なので正確な数は把握できないのだが、社会通俗的に男性が性犯罪の被害に遭ったと言える土壌は今の日本にはないだろう。哀れな話だ。

 そして最後、私の出番である。

「安西真琴は複数の殺人を自白したと同時に、自身の性被害についても告白しました。稲村秋人に暴行され、強姦されたと。誰も聞く耳を持たなかったし、裁判でも彼女はその主張をしましたが聞き入れられなかった。これも表に出ていない性犯罪です」

 ふうん。そんな感想しか出てこない。安西は多くの女性を蹂躙した犯人なのだ。汚され、晒され、殺された女性たちの数と命が助かった安西とを比較すれば当然殺された女性たちの方が割を食っている。安西が悪い、としか言いようがない。

 しかし、よく調べた。さすが優秀な女刑事である。ここに来て被害男性全員に共通点が見つかったわけだ。どれも性犯罪の加害者。要するに、ここから崩していけばあるいは犯人に辿り着ける。そういうわけである。

 缶コーヒーを飲む。私はボタンを間違えたようだ。ブラックを選んだつもりが微糖だったらしく、中途半端に甘ったるい液体が舌を汚した。少し不快だったが、少しだ。大したことじゃない。

「私は真琴の友達でした」

 今更すぎる情報を永場は吐く。

「もし真琴の主張が本当で、あなたが真琴を犯したのなら、私はその罪についてもしっかり追及し、安西が罪を償わなければならなくなったのと同じように、あなたにも罪を償わせる」

「そうですか」

 私の反応が冷淡だったからだろう。永場は表情を険しくすると迫ってきた。

「人の意思を尊重しない人を私は許さない。それが犯罪者の意思であっても、尊重されるべきだと私は思う」

「一つ当てましょう」私は空き缶をゴミ箱に放り込んだ。

「死刑反対論者ですね?」

 永場は口を噤む。しかしすぐに反論してくる。

「関係ありません」

「そうですね」

 私は笑う。

「素敵なご指摘でしたよ。研究の役に立ちそうだ」

 私は永場を正面から見据える。この女に私を責める手段はない。安西は私を引っかくなどの行動には出られなかったし、陰毛の類もついていたところで何だというのだ。安西の膣に残された私の精液だって、今頃は綺麗に排出されているだろう。そのための生理だ。月に一度不要になった卵を排出するのと同時に、血が膣内を洗ってくれる。私の精液もとっくにナプキンに吸い取られていることだろう。サニタリーボックスでも漁るのか? 大変そうだなぁ。

「捜査、頑張ってください」

 私は永場に背を向ける。彼女は特に追及してこなかった。まぁ、証拠がないのだろう。かわいそうに。今頃私の背後で拳を握り歯噛みしているのかな? こうして敵を野放しにせざるを得ない人間ほど惨めな存在はいないだろう。

 帰りがけ。

 ジムの受付に置かれたパンフレットが目に入った。三つの単語が躍っている冊子だった。

「体操、ダンス、パルクール」

 体操は知っている。ダンスも知っている。パルクール? 帰ったら、調べてみよう。被害男性の性犯罪歴についてはどうでもいい。さっき永場が、話してくれたから。



 やや小規模な、犯罪心理学者の研究学会があった。そのために電車に乗り、都心へと出た。会場は大門。東京駅のすぐ近くである。

 オフィスビルが並んでいる。仕事帰りのサラリーマンに需要があるのだろう。小さな居酒屋やバーなどの店も多く並んでいる。海が近いからか風が強い。海抜も低いようである。地震で津波なんかが来たらすぐに沈んでしまうような土地だな。そんなことを思いながら会場へと向かう。

 近くに大きな公園があるらしく、サラリーマンの中に混じって子連れ家族の姿なんかも見える。ペットを連れた老人、ピクニックに向かうママさん集団、観光に来たらしい外国人、様々だった。私はそれらの人の間を通り抜けて行った。

 会場に着く。簡単な挨拶の後、すぐ各人の発表に移った。私の発表順もすぐにやってきた。発表自体は大したことがない。私はこれを専門にしているのだ。

 この日、私は性犯罪被害に遭った女性の心理的ケアについて語った。聞いてくれ、傑作だろう? 女を強姦した私が強姦被害者の女性のケアについて語るのだ。自給自足とはこのことじゃないか? 地産地消とも言えるかもしれない。何にせよ笑える。

 この日の発表会では私を含め、性犯罪に関する研究が比較的多かった。中には、十年ほど前に立ち上げた性犯罪被害者の自助グループに関する縦断的研究について述べている学者もいた。その学者は自身が立ち上げたグループの他、各地の様々な自助グループにアプローチし、その実態を研究していた。このところ日本全国どころか、国境までも跨いで性被害自助グループの統一化、および統合が進んでいるらしい。理由はSNSなどオンラインで繋がることができる環境が整ったことにより、場所を問わず会合ができるようになったこと、性被害者の中に壁を作らず、性別、場所、年齢に囚われずに助け合うことを大切とした文化が芽生えつつあること、などが挙げられるらしい。「誰がどこでどのような被害に遭ったか」を共有することで同様の被害を防ぐ意味合いもあるのだとか。要するに、性犯罪のハザードマップを作ろうというような試みが当事者間で自然に行われるようになった、ということらしい。非常に興味深い研究ではあった。

 学会の場所は割といい会場だった。学者にはそれぞれペットボトルのお茶が振舞われ、発表で使われた喉を潤すことができた。しかしさすがに五百ミリリットルのお茶を一本飲むとトイレにも行きたくなる。会場のトイレは混んでいた。男性トイレでこの混雑だ。会場の割に小さいトイレなのだろう。仕方がない。私は駅のトイレを使うことにした。

 しかしこの日はついていなかった。駅のトイレは清掃中だったのである。諦める。乗り換え地点の駅でトイレに行くか。

 そう思った時、清掃中であるはずのトイレからサラリーマン風の男性が姿を現した。清掃中だろうが何だろうがトイレを使う時はある。私だってそうだ。今日はたまたま、道徳心が勝ったので清掃中のトイレを使うことを諦めたが、私だって何度かやったことはある。

 と、唐突に何かが繋がった。それは快感だった。射精の時に近いような。いや、ある意味ではそれ以上の。

 私はトイレに入る。用を足すため……だけではない。

 しかし同時に祈ってもいた。私のこれからの幸運を。具体的には、今後三十分範囲内くらいの幸運を。



「〇〇(都合により社名を控える)株式会社ですか?」

 研究室。私は電話をしていた。

「警視庁から連絡が行っているかと思います。稲村です」

 電話口の女性が「担当と代わります」と告げる。しばし待つ。時間にして数秒。

「お電話代わりました」

 担当の人間が電話口に出てくる。私は訊ねる。

「御社が清掃を請け負っている場所についてお聞きしたいんですが……」



「永場です」

 私からの電話が不愉快なのだろう。

 永場は明らかに棘のある調子で私からの電話に応対した。しかし構うことなく私は続ける。壁尻の写真を見ながら。哀れな女が壁に頭をぶち込んで陰部を肛門を晒している姿を眺めながら、私は永場に話をした。

「先日ジムにいましたね」

「いましたが」

「汗を流しておられた」

「流しましたが」

「器械体操ですか」

「違います」

「ではダンス」

「違います」

「じゃあパルクールですね?」

 沈黙。何が言いたいか図りかねているのだろう。

「女子高生が痴漢に遭った事例がある、と言いましたね。一人目の被害男性が行っていた性犯罪についての報告です。確か女子高生は死んだんだったかな?」

 私は畳みかける。

「随分熱心に語っていましたね。全部で九件、性犯罪の報告があったのに、最初の女子高生だけやたらと長いこと私に語っていた」

「だから何だって言うんですか」

 永場の声が明らかに尖る。私は笑う。

「同じ趣味の人間ってかわいく思えますよね」

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