ブリーフ殺人事件

飯田太朗

第1話 事件編

 ブリーフ……男性用下半身用下着の一種。股下を省略した形の下着で「(衣服が)短い」という意味での「ブリーフ」と呼ばれる。密着性が高くY字型をしていることが多い。



 その死体が見つかったのは豊洲のオフィスビル一角。

 とある有名企業の社長室でのことだった。

 アポがあった。そのことは社長も秘書も分かっていたしGoogleカレンダーにも記載があった。社長はパソコンと秘書両方からリマインドがあった。それなのに応答がなかった。

 十分経過。先方が苛立ち始める。秘書は焦る。社長は何度内線を入れても出ない。受付係は訓練された女性だったので焦りを顔には出さなかったが、しかしまずいことは明白だった。再三の連絡の後、秘書は先方に「少々お待ちください」と丁寧に述べ社長室へと向かった。そして異変に気付いた。

 ドアが開いていたのである。

「泉さん……」

 社長の名を呼ぶ。しかし返事がない。

 清掃スタッフが通り過ぎる。清掃カート、モップ、バケツ。それらは日常だった。秘書のみならずこのビルにいる人間がよく見かける光景だ。しかしドアは……薄く開かれたドアだけは日常ではなかった。そこはセキュリティカードがないと開かない場所だった。セキュリティカードはビルの中に入れる人間しか持っていない。

 微かな音。ドアが開いていることを感知してセキュリティシステムが警報を出しているのだ。社長室の中から聞こえてくる。この部屋を利用するのは当然社長だけだ。よって社長にのみドアの異常を知らせればいい。そんな簡略的なシステムだったからこそ、秘書はフロアに来てすぐ異常に気付かなかった。秘書が警報を耳にしたのは社長室まで残り二メートルという距離に来た時だった。

「泉さん……?」

 社長、という名称は社の方針上使わないことになっている。役職ではなく名前で。風通しを良くしようという会社の考え方だ。秘書ともなれば社員の手本にならねばならないのでそのことは徹底していた。しかし返事はなかった。

 ドアを開ける。警報音が大きくなる。そしてすぐ視界に入ってきた光景は、奇妙なものだった。最高級のスーツ、最高級のオフィスデスク、チェア。デスクの上にある最新型のスタンドライト……着席を感知して自動で点灯する……は明るく輝いていた。そして社長の背中を照らしていた。

 社長室はドア正面の壁一面がガラスになっており、豊洲の海を一望することができる。陽光を受け、室内は明るかった。社長は窓に向かって座っていた。

「泉さん、お約束が……」

 と、言いかけた秘書は泉社長の頭部を見て驚く。泉社長は禿頭だった。本人もそのことを気にしている。なので秘書たちは、自主的な訓練によってそこに目をやらないようにしていたのだが、この日は自然と目が行ってしまった。何故なら本来なら肌が見えるはずの場所が白かったからである。

「いず……」

 と、言いかけた秘書の声が凍る。デスクの下。カーペットが敷かれた床。

 赤い。赤黒い。

 血であることに気づくのに時間はかからなかった。怖い。だが大怪我で意識を失っていたらすぐに助けを呼ばなければならない。

「泉さん」

 秘書は意を決して社長の顔を覗きに行った。社長の正面、窓ガラスの側に回り込む。そして息を呑んだ。社長は既に冷たくなっていた。

 社長の頭部を包んでいたもの。

 それはブリーフだった。社長の下半身は素っ裸で、太腿から性器、へその辺りにまで生えた汚い毛が丸見えになっていた。そして男性の真ん中……局部から大量の血が流れていた。局部には何もなかった。

 ブリーフをかぶらされた社長の口に肉塊があった。肉塊には毛が生えていた。縮れたそれが陰毛であることに秘書は瞬時に気づいた。そしてそれが何であるかも、すぐに分かった。

 声は出なかった。代わりに腰が抜けた。へたへたと座りこんだ秘書の視界に、社長の胸元が飛び込んできた。そこには一枚の付箋……ちょっとした短冊くらいはある大きさの細長い付箋……が貼られていた。そこにはこう書いてあった。

「くれなゐの やまとおのこの おはせかな」

 大学時代に国文学を学んだことがある秘書は、その句の意味がすぐに分かった。そして何とか起き上がると、社内専用端末で助けを呼んだ……救急車が必要であるかは、最後まで迷った。



 これが、現在世を騒がせているブリーフ殺人事件の最初の報告である。本件は都内だけで連続して五件、首都圏にまで範囲を広げると神奈川で三件、埼玉で一件起きていた。計九件の殺人事件である。当然、当局は色めきだった。

 要は、男性を殺してその性器を根元から……睾丸ごと……切断し、それを口に咥えさせた挙句に被害者が履いていたブリーフを頭にかぶせるという、男性からしたらこれ以上ないほど屈辱的な姿にさせられる殺人事件であった。

 被害者には共通項がひとつ。

 全員ブリーフ愛好家だったのだ。トランクスでもボクサーパンツでもない。ブリーフである。女性には大きな違いが分からないだろう。ボクサーパンツとトランクスが同じものだと思っている人も多いかもしれない。ブリーフなんてカッコ悪い。キモい。そう思っている女性もいるかもしれない。しかし世の男性には一定数このブリーフを愛好している人間はいる。昨今のブリーフは色、柄、共に多彩で、女性の性的嗜好をそそることを目的としたものまで存在する。かの有名なゴルゴ13もブリーフ派である。一流の仕事人はブリーフを履くものなのである。ズボンの下でぶらぶらなどさせないのだ。

 そして被害者は全員、「白いブリーフ」の愛好家だった。文字通りブリーフだったのである。

 犯罪心理学者という職業柄、この手の殺人事件が起こると取材のオファーが殺到するのだが、私はそのどれも断った。私は研究室に閉じ籠り、ゼミも休講にし、極力外部との接触を断ってこの事件について調べ回った。参照できる文献、記事、報道は全て閲覧した。そして自分なりの見解をまとめた。

 この事件の顛末を聞いての、私の率直な意見を述べよう。

 戦慄した。恐怖に慄いた。心臓を何かに鷲掴みにされたような錯覚に陥った。何故なら私も白いブリーフ愛好家だったからである。

 何なら汚れが目立ちやすい白いブリーフにおいて、いかに汚れを残さずに長持ちさせるかを試練として自らに課しているほどの愛好家であった。私は白いブリーフの白さの維持に壁尻と同じくらいの熱意を注いでいる男性だったのである。

 女性にあるかは知らないが、男性には残尿という天敵がいる。

 女性はそれらをトイレットペーパーで拭くのだろう。あるいは拭かずに済ませてしまう人間も……虫唾が走るほど汚らわしいが……いるかもしれない。しかし男性の多くは小便器の前で腰ないしは男性器を振ることで尿道に残った尿を遠心力の力を以て排出する。私はこれを入念に行う。そうすることによって残尿の漏洩を防ぎ、ブリーフの清潔さ、純白さを保つのである。多くの男性は時間にして一秒ないしには二秒ほどペニスを振るだろう。一秒未満の人が多いかもしれない。しかし私は入念に五秒振る。きっかり五秒である。六秒でも四秒でもない。五秒である。心拍数に合わせてほぼ正確に五秒振る。幼い頃よりそうしているのでもう何も考えずとも反射でそれができる。何なら先程質問をしに来た女子学生を壁にぶち込んで犯しているところを想像しながらペニスを振ることだってできる。

 私が今履いているブリーフはかれこれ三年選手である。長い。男性の下着のサイクルがどれくらいなのかは知らないが、比較的長持ちしている方なのではないだろうか。私の家の抽斗には学部生時代に履いていたブリーフがしまわれている。履くことはないしかぶることもないのだが何となく捨てにくく、取ってある。高校時代より以前のは捨ててある。

 さて事件である。

 特徴は「白ブリーフ愛好家」「ブリーフをかぶらされる」「口に切断された男性器」「胸元に俳句とも川柳ともとれる短詩の書かれた短冊」である。短詩は一貫して以下である。

「くれなゐの やまとおのこの おはせかな」

 簡単に訳すと、「日本人男子の男性器が真っ赤に染まっている」くらいのニュアンスだろうか。「くれなゐ」は文字通り「紅」。「やまとおのこ」は「大和男」、つまり「日本人男性」。「おはせ」は「男性器」。「かな」は終助詞。意味は接続なのか詠嘆なのかは知らない。詠嘆だとすると「日本人男子の男性器が真っ赤に染まっているなぁ」。雅である。世の男性器もまさかこんなに美しく描かれるだなんて思ってもみなかっただろう。

 考えてもみて欲しい。

 男性器である。詳しい構造は知らないが大まかな理解として体外に出ている精巣を陰嚢が包み、陰茎の中には海綿体と尿道があり、排尿および性的興奮を得た時には海綿体に血が流れ込み膨張し、挿入可能な状態になる、そんな器官である。強力な靱帯で繋がっているわけでもなければ、犬などのように骨が通っているわけでもない。切ろうと思えばハサミでも切れる。聞いた話では勃起したペニスが骨折……骨がないのにこの言い方もどうかと思うが……することもあるらしい。ポキっと音がするのだとか。恐怖である。

 被害者は全員睾丸ごと男性器を切断されて口の中に放り込まれている。生前に切られたのか殺害後に切られたのか、私が調べた範囲では分からなかった。どっちにしても殺されることには変わりがないので悲惨である。もしかしたら性器が切られた痛みで死んだのかもしれない。

 悲惨だ。悲惨としか言いようがない。何でこんな残虐な殺人方法を思いついたのか理解に苦しむ。中世の拷問じゃないんだぞ。中世の処刑じゃないんだぞ。鋸挽きか。火炙りか。皮剥ぎか。石抱か。

 こんな目に遭うくらいならいっそ死んだ方がマシだろう。だが死ぬしかないというこの八方塞がり。雪隠詰め。穴熊崩し。チェックメイト。人生の終わりである。終焉である。滅亡である。

 しかしそれでも性欲は湧く。

 壁尻バーには行けないので先のウェディングドレス殺人事件の被害者写真で抜く。ひとしきりペニスを……大事なペニスを……しごき終えてから思う。

 この事件はヤバい。

 一説によれば「ヤバい」は江戸時代から使われていた言葉だそうである。同じく「マジ」も。つまり江戸っ子たちは「マジヤバいでござる」ぐらいのことは言っていてもおかしくはなく、その江戸っ子風に言うとこの事件は「マジヤバい騒ぎでござる」という感じだろうか。……何故江戸の言葉を研究しているんだ私は。

 事件を受けて当局に何らかの動きがあることは予想していた。しかし今回の警察は極力自身の手で捜査を進めることを決めたらしく、九件目に至るまで私の元に連絡はなかった。おそらく被害者がいわゆるエリート層……社長や国家公務員、若い管理職系が多かった……に及んでいたことから外部への情報漏洩を防ぐためにそのような手に出たのだと推測は出来たが、何にせよ私のところに来るのはかなり遅かった。私はじっくり九件分の事件研究を済ませた上で、信頼を寄せる西島警部補との接触を果たした。長引く捜査に疲れているのだろうか、それとも事件の陰惨さに同じ男として感じ入るところがあったのだろうか、やつれた姿で西島氏は現れた。一名の捜査官をお供に連れて。

「捜査協力の依頼で参りました。稲村さんは私を通じて警視庁と関りを持ちたいとのことだったので、ひとまず今日は私が。それでこちらが……」

 と、西島氏が脇に退く。彼の背後から姿を現したのは。

 小柄の……しかし肉付きの良い……女性捜査官だった。

「永場三咲と申します。西島さんより兼ねがねお噂は伺っております。数々の事件に協力してくださったのだとか」

「いえいえ、大したことはありませんよ」

 西島氏と永場さんに椅子を勧める……椅子は、例によってあの椅子である。西島のはもう使い捨てでいい。

「最近首都圏で発生している事件についてはもう聞き及んでいるかと思います」

 どうやら今回の訪問の主導権はこの永場とかいう女性捜査官にあるらしい。西島氏は大人しくしている。私はコーヒーを勧める。インスタントコーヒー。

「連続して九件。手口はどれも似ていますね」

 私は自らの研究を口にした。

「被害者はおそらく拘束されている。手や足には抵抗した跡、ないしはロープ結束バンド等の跡が見つかっている。長いこと……最低でも一日……拘束し、恐怖を煽ってから殺害している。被害者の血中からはアドレナリンとコルチゾルが検出されている。このことからも『かなりの恐怖』を与えられてから殺害されたのは明らか。性器の切断は傷口から判定するに、死後である可能性が高いが血管が集まる複雑な場所なので一概には言えない。死後に被害者が装着していたブリーフを頭にかぶせ、俳句の書かれた短冊を胸に貼り付ける。逃走手段は不明だがあまり現場を綺麗にして立ち去るタイプではないらしく、手掛かりは多いが逆に多いことが捜査を混乱させている。犯行現場はオフィスビルの時もあれば被害者自宅の場合もあり、様々。いずれにせよ共通しているのは『拘束され』『恐怖を与えられ』『性器を切断され』『履いていたブリーフをかぶせられ』『短冊を胸に貼り付けられる』という点。メッセージ性は短冊にしかなく、筆跡から過去の犯罪者に該当するものがないか等当たっているが私のところにこうして来たところから察するに……」

「どれも功を奏していません」永場さん。堂々と述べる。

「分析お見事です。当局は手詰まり感を覚えています」

 それは私もなのだが、しかしそんなことを言っても話は前に進まない。

「俳句について分析は?」

「手書きのようです。しかしそれ以上のことは」

「犯行声明などは?」

 この手の情報はマスコミに伏せることが多い。

 しかし永場さんは首を横に振る。

「ありません。句が残されているのみです」

 私はコーヒーに口をつける。

「被害者に何か特徴は? 報道を見る限りだと優秀とされる男性が狙われているそうですが」

「経済的な面に偏りは見られませんでした。年収五百万の起業家もいれば年収億単位、会長クラスの人間もいる。年齢も同様。若手から老年まで。外見的特徴も一致する傾向はありません。本当に、『白のブリーフ』以外の共通項がないんです……」

 語尾に僅かな違和感があることに気づいた私は、じろりと永場さんの目を見つめ、意味ありげに視線を伏せると続けた。

「あなた自身、何かを感じていますね?」

 永場さんは、直情的なタイプと見た。

 まず服装。あまり気を遣わないようだ。安物のスーツ。化粧もあまり飾り気がない。最低限で済ませているか、下手したらすっぴんだ。それくらい見た目に気を遣っている様子がない。唯一髪には気を遣っているようで短く切りそろえている……というより、ほとんど男性のショートに近い。坊主の毛が伸びたくらいの髪しかない。特徴的なピアスをしている……あれはキリンだな。黄色の四つ足と言ったら大方キリンだろう。ライオンにしては首が長いしな。

 つまり、「自分が気に入ったものは真っ直ぐ愛するが、そうでもないところには本当に最低限の力しか割かない」タイプの人間であり、この手の人間は独特の観点から独特の発想を得ていることが多い。しかし多くの場合、日本社会の右に倣え精神に圧迫されて自分の意見を言えないことが多いから、習慣的にアイディアを口にしないことにしている人が大多数。

 そして得てしてこういう人は、直球で意見を投げるとびっくりして本音を漏らすか……あるいは肝が据わっていれば、直球で返してくる。そういうものである。

「私の直感ですか?」

 案の定、食いつく。

「交通手段に特徴がある気がします」

「交通手段」

 やっぱり面白い着眼点である。

「いえ、九件の特徴にしかすぎず、今後もこの傾向があるかは分からないのですが……」

「どうぞ」

「通勤手段に車を使っている人がいないんです」

「なるほど?」これは面白い。

「単純に車という交通手段が匿名性の高いものだからか、それとも犯人の行動範囲内から外れやすい自由度の高い乗り物だからか、は分かりませんが、とりあえず九件連続して『車を普段使わない』人が被害に遭っています」

 実に興味深い意見である。

「被害者の通勤手段を。九名分情報はありますか?」

「あります」即答。

「徒歩が二名。電車が五名。自転車が一名。バスと電車の併用が一名」

「法則性がありそうでないですね」

「そうなんです」永場さんが身を乗り出す。

「どこか共通の駅を使っている可能性についても検討しました。けれどバラバラなんです。比較的近い駅だったりすることはありますが、一致することは全くなく……」

「ちなみにですが被害者がよく利用していた駅を教えてもらっても?」

「三駅リストアップしています。知人の学者に依頼して可能な限り統計的アプローチをとってもらいました」

 なるほど。信憑性の高そうな情報である。優秀な女性だ。そして……いい尻をした女性だ。

 この間、西島氏は黙然と椅子に座っているだけだった。おそらく、永場さんの方が上司に当たるのだろう。

「豊洲駅、浜松町駅、品川駅」

 私鉄とJR入り乱れている。路線に共通点もなさそうだ。

 品川と浜松町になら私も学会の発表で三カ月に一度くらい行く。身近と言えば身近だ。小さな恐怖感を覚えながら私は頷く。

「自転車通勤の被害者に至っては、お台場から清澄白河まで走破している人なので、本当に特徴がないというか、『車は使わない』程度のことしか言えず……」

「立派な意見だと思います」

 私のコメントに励まされたのだろう。永場さんは表情を明るくすると口を開いた。

「もうひとつ、共通点が」

 何だろう。私は片眉を上げる。それを肯定的サインと受け取ったのだろう。永場さんは口調を若干弾ませて告げる。

「愛用するブリーフが全員……ワコールのものだったんです」

 戦慄した。

 私のブリーフと同じメーカーだったからである。



 意識を取り戻したのはおそらく二十時間ほど経過した後のことだった。

 帰宅した時までのことは覚えている。マンションに入り、郵便受けを確認し、エレベーターに乗り、家のドアに鍵を差し込み、そしてそこから……記憶がない。

 首を持ち上げる。首筋にひりひりした痛み。視界が歪んでいたので何度も瞬きをする。起き上がろうとする。

 動かない。

 手が拘束されている。……足もだ。

 とりあえず動く範囲で体を動かしてみる。ほとんど芋虫みたいだった。やっとのことでうつ伏せになったが、視界が悪い。再び苦労して仰向けになる。そして気付く。

 自宅だ……私の家だ。

「起きたか?」

 ボイスチェンジャー。すぐに分かった。あるいは入力文字を音声で読み上げるアプリか何かか。何にせよ人間の声じゃない。

 唐突にライトの光が差し込む。顔を照らされる。眩しい。何も見えない。

「見えるか?」

 声。そして紙。ひらりと顔の上を舞ったそれは間違いなく紙だった。私は何とかそれを見る。明かりに透かされるようにして、赤い文字が躍る。

「くれなゐの やまとおのこの おはせかな」

 戦慄した。これはヤバい。マジでヤバイ。

「分かるな?」

 端的な質問ばかり。おそらく自分のことを察知されたくないのだろう。最低限の会話で済ませている。用心深い。周到だ。私は何とか首を振って状況を確認する。

 足。靴下が見えた。どうやら人の家に土足で上がり込むタイプではないようである。靴下は便利だ。繊維が現場に残っても、その靴下を捨てて予備を履けば誤魔化せるし、足紋も残らない。

 ぼんやりと浮かぶ犯人の輪郭。

 フードをかぶっているのだろうか? 山の形をしている。性別の判定はできない。

「分かるな?」

 再びの問い。しかし今度は。

 ライトの中に尖ったものが見えた。本能的な恐怖を覚えた直後にそれは、二つに分かれた。ハサミだ。そう理解するのに時間はかからなかった。

「分かるな?」

 同じ質問の繰り返し。そしてこの時になってようやく気付く。

 下半身が涼しい。

 脱がされている。上半身はシャツを着たままだが、下半身は脱がされている。慌てて局部を隠そうと腰を引くが大して意味はなさそうだった。頭上の声が続ける。

「汚らわしい」

 ひらひらと、私の顔の近くに。

 何かが落ちる。紙? いや、写真だ。

 私の壁尻コレクションだった。壁尻バーで撮影した、壁に埋まった女性の、哀れな、惨めな、屈辱の姿を晒した写真が、私の顔の近くに落とされたのだ。

「汚らわしい」

 ボイスチェンジャーの声は低い。

 くぐもったような声だ。

 性別が分からない。何者かも分からない。

 腰を引く。何とか局部を守ろうとする。手は拘束されているので使えない。足も全く動かない。太腿とペニスにフローリングの冷たい感触があった。声を上げようとしたが、タオルか何かを噛まされていることに今更になって気づいた。

「裁きを」

 明かりの中に。

 尖った何かが掲げられる。

 二股に分かれたそれ。

 刹那的な美しさを放ったそれ。

 突き立てられるのか。あるいは切断されるのか。

 どちらも嫌だった。どちらも怖かった。

 悲鳴が出る。

 しかし、その声さえも。

 轡に包まれ消えていく。

 何かが聞こえた。

 それは犯人の吐息だった。

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