第292話 春の兆し(1)

「んっと!」


 掛金かけがねを外して重い窓を押し開ける。ふわりと薄いカーテンがはためき、優しい風が頬を撫でる。

 ここはガスターギュ邸の屋根裏部屋。普段使っていない場所でも、数日に一度は換気して軽く掃除しておく。埃っていつの間にか溜まっちゃうのよね。

 頑丈が取り柄の小さな窓から下を覗くと、午前の明るい庭ではアレックスとゼラルドさんが菜園を耕しているのが見えた。遠くて会話までは聞き取れないけど、何やら声を尖らせて言い争いしていると思ったら、急に肩を震わせて笑い合ったりして。あの二人はなんだかんだで仲良しです。

 ああいう気の置けない関係っていいなぁ。私は内容関係なく怒鳴り声を聞くと萎縮しちゃうから。

 見慣れた光景に和みつつ掃除を始めようと箒を手に取ると、視界の端で黒い影が動いた。


「え?」


 驚いて振り返ると、窮屈そうに並べられた四台のベッドの一番奥に寝そべって優雅に毛づくろいするべっ甲色の猫を発見した。


「ルニエ、ここにいたの」


 いつも朝ご飯を食べてから夕飯まで自由に敷地内を散歩しているけど、今日は屋根裏部屋に来ていたのか。

 私はベッドに腰掛けて、彼のふわふわの毛を撫でる。私が来る前からいたみたいだけど、ドアが閉まっていたのにいつ入ったのだろう? ルニエと初めて出会ったのもここだから、彼しか知らない抜け道があるのかもしれない。


「私の方が先に住んでいるのに、君の方がお屋敷に詳しいね」


 顎の裏を指でくすぐると、コロコロとご機嫌で喉を鳴らす。今は使われていない旧使用人のベッド四台のうち、一番窓の明かりが差し込んでいるのはルニエの寝ているベッドだ。本当に猫は陽だまりを探すのが上手い。

 暖かな日差しが気持ちよくて、私もついあくびが出てしまう。まだ今日は始まったばかり。やることはたくさんあるのに、このままルニエと寝そべって一日のんびり過ごしたくなってしまう。

 時折吹き抜ける風も心地好い。この間までは刺すような寒さで暖房設備のない屋根裏には昼間でも長く居られなかったのに。最近はすっかり春めいてきて……。


「……春、か」


 声に出すと、ズンッと石を飲んだように胸の奥が重くなる。

 私がガスターギュ邸に来たのは去年の春の終わり頃。もうじき一年が経つ。


 そして、もうじき……私の雇用期間が満了する。

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