第95話 お庭のこと(8)

「おーい! 暗くなったから、今日はここまでにしとくよー!」


 声を掛けられ玄関に向かうと、塗料のバケツを持ったアレックスが立っていた。顔をタオルで覆い、手袋もしてたから皮膚に塗料は着いていないけど、その代わり暑さで汗だくだ。穴に落ちたせいで髪まで泥まみれだし。

 でも、汗に濡れた前髪の間から覗く瞳は大きく睫毛が長く、よく見るとやっぱり女の子だ。


「塗料と脚立、納屋に戻しておこうか?」


 勝手知ったるという感じで彼……じゃない彼女が訊いてくるけど、私はやんわり苦笑を返す。


「私がやっておきます。納屋までの道はちょっと……あなたが知っていた頃と違うから」


 暗闇で罠に掛かったら命に関わります。アレックスは「ああ……」と苦虫を噛み潰した顔で頷いた。


「お疲れ様でした。これ、今日のお給金です」


 私が銀貨を一枚渡すと、アレックスは驚きに目を見張った。


「くれるの!? まだ塗り終わってねぇぞ!」


「ええ。ですから、これは今日の分。作業が終わったら全額お渡しします」


 彼女はびっくり眼のまま、


「オレがちゃんと明日も来ると思ってんの?」


「来ないんですか?」


「いや、来るけど」


 それなら問題ないです。

 狐につままれたような表情のアレックスに、私はもう一つの荷物を差し出した。


「この袋に着替えとお風呂代が入ってますので使ってください。服は私のお古なので返さなくていいですよ」


 アレックスは手提げ袋を覗き込む。中身はシンプルなブラウスとフレアスカート。どちらもミシンの調子見に縫った物だから、あげても惜しくない。彼女は曖昧に眉を寄せて、


「……バレてた? 今まで他人に気づかれたことないのに」


 我が家には、その道の達人(?)がいますから。


「わざと男の子の格好をしているの?」


「……その方が仕事を探しやすいから」


「アレックスは本名?」


「正式にはアレクサンドラ」


 なるほど、愛称アレックスね。


「そういえば、あんたらの名前訊いてなかったな」


 思い出したように赤毛の少女が言う。

 そういえば、自己紹介してませんでした。


「このお屋敷の主はシュヴァルツ・ガスターギュ様。私はミシェルです」


「ガスターギュ様のお屋敷だな。解った」


 アレックスは何度か口の中で呟いて、しっかり脳に覚えさせる。


「それじゃ、明日も来るから旦那様によろしくな!」


 気さくに手を振って外に出ようとするアレックスを、私は「待って」と呼び止めた。最後の荷物をまだ渡していない。


「これ、どうぞ」


 いくつもマメのできた少女の手に、私は二つの包みを持たせた。それは、お惣菜をパンで挟んだ物。さっきシュヴァルツ様に許可を取って、彼女が持ち帰れるよう作っておいたのだ。


「お父様と一緒に食べてね」


 言い添えてから引こうとした私の手を……アレックスは縋るように握ってきた。


「……めん」


 ぽろぽろと大粒の涙が幼さの残る頬に零れ落ちる。


「ごめん、なさい。オレ……ちゃんとするから。与えられたチャンスを無駄にしないから。もう、バカなことしないから……っ」


 顔をぐしゃぐしゃにして泣き出した彼女を、私はぎゅっと抱きしめた。


「うん。解ってる。もう大丈夫だよ」


 自分より少しだけ低い彼女の背中を、幼子にするようによしよしとあやす。


 ……つらいよね。

 まだ庇護される年齢の頃から働いて。

 庇護してくれるはずの大人を養わなきゃならなくて。

 誰も助けてくれなくて。

 でも身内を見捨てられなくて。


 解るよ。

 ……私もそうだったから。


 私はかつてシュヴァルツ様がしてくれたように……。アレックスが泣き止むまでずっと、彼女の背中を撫で続けた。

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