第92話 お庭のこと(5)

「オレの名前はアレックス。オレの親父は以前、この屋敷の庭師をしてたんだ」


 働き者の父と気立ての良い母、それに可愛い弟妹。アレックスは決して裕福ではなかったが幸せに暮らしていた。父親は住み込みではなく王都の郊外に家族で住んでいて、毎日庭の手入れに通っていた。

 ――アレックスの生活が一変したのは去年の春先のこと。

 ある朝。父親が屋敷に行くと、そこに雇い主である伯爵一家の姿はなかった。

 事業に失敗し、夜逃げしていたのだ。

 ……先月の給金も未払いのままだったのに。

 世は不況の最中で、一度失業すると再就職は難しい。安定した収入源を失った父親は、それでも日雇いの仕事で家計を担っていた。

 しかし……誇りを持ってやってきた庭師の仕事を奪われたことへのショックは大きかった。同業者のつてを頼ろうとしても、今のご時世では望む仕事は見つからない。失意の中、父親は酒に逃げるようになった。

 酒量が増えるにつれ、父は無気力になり、日雇いの仕事にも行かなくなった。

 毎日飲んだくれて声を荒げる父に、母が愛想を尽かすのは時間の問題だった。

 そして、一ヶ月前。母はとうとう幼い弟妹を連れて、王都から遠く離れた郷里へと帰って行った。


「アレックス。いつまでもここにいたって、お父さんと共倒れよ。私達とお祖父ちゃん家に行きましょう」


 彼も勿論母に誘われたが、首を横に振った。

 アレックスは庭師の父が大好きで、いつも仕事についていっては手伝いをしていたのだ。

 いつか元通りの働き者の父に戻ってくれる。彼はそう信じていた。

 しかし、父はいつまで経っても相変わらずで、アレックスが近くの商店の手伝いや配達でやっと稼いできた小銭を巻き上げては酒に変える始末。

 こうなったら、父親諸共……。

 と思いつめていた時。

 ふと、ある噂を耳にした。

 あの屋敷に新しい住人が入ったらしいと。

 アレックスは父が失業してから何度かあの屋敷の前まで行ったことがあった。でも、日を追うごとに荒れ、夏の盛りに生い茂ってお化け屋敷の様相を呈してきた庭木に、いたたまれずに足が遠退いていた。


 そして、今日。


 久し振りにアレックスはこの屋敷――ガスターギュ邸――に赴いたのだった。


「最初はちょっと遠くからちょっと見て帰るつもりだったんだ。どんな人が住んでるのかなって。だけど……」


 アレックスは一つ縛りの赤毛が落ちかかる細い肩を震わせて――


「あれはなんだよ!?」


 ――突然ビシッと正門の左右にそびえ立つ一際大きな庭木を指差した。


「なんて酷い切り方するんだよ! あんなの、剪定じゃなくて伐採だ! せっかく親父が何年も掛けていい枝振りにしたのに台無しにしやがって!」


 涙目で責め立てるアレックスに、シュヴァルツ様は飄々と、


「仕方がないだろう。視界が悪かったのだから」


「仕方なくねーよ! 葉だけ払って見通しを良くする方法も、枝を透いて日当たりを良くする方法もあったんだ! それを若葉も花芽も関係なく切りやがって。木が傷んじまうだろ!」


 さっきまでの殊勝な態度はどこへやら。庭師の子供は自分より二回りは体の大きな将軍にギャンギャン吠えたてる。


「他の木もそうだ。彩りを考えて配置した花の咲く低木を引っこ抜いて、あちこち溝やら穴やら掘りやがって。どうして貴族屋敷の庭に物騒な罠が仕掛けてあるんだよ? ここは魔窟か? 勇者かなんかが攻めて来るのか!?」


 さらっとシュヴァルツ様を魔王扱いしないでください。


「それで、ムカついてたら、屋敷からあんたか出てきてさ……」


 アレックスは気まずげにちららと私を見遣る。


「帰ろうと思ったんだけど、なんとなく立ち去りがたくて。そうしたら、あんたが戻ってきて……」


 ぎゅっとズボンの膝の上で拳を握る。


「小綺麗な格好してのほほんと何の悩みもないって顔で美味そうな匂いのするカゴを持って歩いてるのを見たら、オレなんかもう何日もロクに飯を食ってないのにって我慢できなくて……!」


 ……それで、暴挙に出た。

 休日の私の衣装は飾り気のない自作のワンピースで、取り立ててオシャレをしているわけでもない。それに、悩みが何もないわけでもないんだけど……。

 でも、『他人の目』を通すと、こんな私でも羨ましく映ることがあるんだ。

 アレックスは体ごと私に向き直ると、深々と頭を下げた。


「突き飛ばしてごめん。本当に怪我させる気はなかったんだ」


 それから顔を上げて、


「あんたらのせいじゃないのは解ってる。でも、この屋敷を見たら前の住人への恨みが溢れてどうしようもなくなっちまったんだ。あと、庭を滅茶苦茶にされたのはやっぱりムカつく」


 ……そこは譲らないんだ。

 なかなか頑固な子です。

 話を聞いたシュヴァルツ様は、大きく息をつくと、厳かに口を開いた。

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