39.黒霧、舞い、祈り
開けた場所に艦が着陸し、わたし達は外に降り立った。
陽射しが強くじりじりと肌を焼くほどなのに、気味が悪いくらいに肌寒い。
日傘を差したわたしは素肌が晒されている腕を摩った。暑いだろうからと長袖にしなかったのだけど、どうしてこんなにも冷えているのか。
「大丈夫?」
「はい。……何だか、寒いですね」
気遣ってくれるレイチェルさんは魔術師のローブに袖を通している。見ればレイチェル様の副官であるルーカスさんも、魔術師団から派遣された方々は皆、白いローブを纏っていた。
軍服の襟元を寛げようとしたレイチェル様の手をルーカスさんが無言で叩く。身を屈めたルーカスさんはレイチェル様のスカートを軽く直し、レイチェル様もそれを受け入れていた。
「上着を貸そうか」
「いえ、そこまででは。……これも黒霧の影響なのですか?」
「そうだと思う。森だっていうのに鳥の囀り一つだってしなくて、静かすぎるだろう? 呪術にあてられて死んでしまったか、取り込まれてしまったか……どっちにしろ、色んなものを捻じ曲げるとんでもない空間って事だよ」
ルーカスさんがレイチェル様に杖を手渡す。細身で長い黒杖には銀色の装飾が施されて、先端には大きな魔石があしらわれている。淡い光をたたえたその魔石は、レイチェル様の瞳と同じオレンジ色をしていた。
「陣形を保ち進軍。魔術師団とシェリル嬢の安全を優先せよ」
「はっ!」
リアム様が声を張ると、紫龍軍の方々が一糸乱れぬ敬礼をする。踵を地に打ち付ける動作に、地面が揺れたような錯覚さえ覚えてしまう程だ。
「では行こうか。少し歩くが……疲れたら言うように」
リアム様はわたしの隣に居て下さるらしい。それにほっとしながらも、わたしは首を横に振った。
「イルゼさんが歩きやすい靴を用意して下さっていますから大丈夫です。どうぞわたしの事は気になさらずに」
リアム様はそれ以上は何も言わず、ただ頷いてくれる。
わたしの足元はヒールの低い編み上げのブーツだ。足首より少し上のその靴はわたしの足に馴染んでいるし、見た目以上に軽いその靴ならば長い時間を歩いても痛む事はなさそうだ。
今日はドレスではなく、膝下丈のワンピースを着ているのも歩く事を考えての事だった。足さばきの良いワンピースは華美な装飾がされているわけでもなく、動きやすい。
あとはわたしの体力次第だが、ついていく分にはきっと問題ないだろう。
周囲を見回せば、穏やかな森の風景。
風にそよぐ木々の風が大地に影を伸ばしている。ありふれた夏がそこにあるのに……何だかひどく異質だった。
しばらく歩くと、まだ距離はありそうなのに黒い霧が視認できた。
蠢いて濃淡を変えるその霧は、まるで意思を持っているかのように不気味なものだった。
「うーん……これ以上進むのは危ないねぇ」
「飲まれそうだな。こんなものを晴らせるのか?」
「レイチェルちゃんにお任せ、ってね」
紫龍軍の方々が両脇に避けて道を作る。武器をしっかりと握り締め、何かあっても対応できるようにだろうか、その意識は霧へと向けられている。
わたし達は人垣の中を霧の側まで歩む。
ずくん、と胸の奥で何かが騒ぐのは……わたしに掛けられた呪いが、ピアニー様の作ったこの黒霧に反応しているのかもしれない。
魔術師の方々が霧の近くに文言を描いていく。二重に縁どられた円が幾つも描かれて、時折に魔石が落とされていくのはちゃんと意味があるものなのだろう。
ルーカスさんが両手を霧に向けて詠唱を始める。呼応するように魔石が光を帯び始め、溢れた光が踊るように弾み始めた。
その光が輝きを増していく。見上げる高さまで弾んだ光は繋がって、ゆっくりとまた地上へと伸びてくる。揺れ動くそれはさながら光のカーテンで、きらきらと色が変わっていく様はとても美しかった。
「……保つのか」
ぼそりとリアム様が呟きを落とす。その視線を追いかけるとルーカスさんの顔色は悪く、額には汗が浮かんでいた。きっと魔力の消費が激しいのだろう。魔術師の方々がルーカスさんへと手を向けて、魔力を流しているのも見える。
──ドンッ……!
不意に響いた音。それはレイチェル様が杖の先で地面を叩いた音だった。
黒い三つ編みが風に浮かぶ。その風はレイチェル様の足元にある魔法陣から吹き上げられているようだった。
唄うようにレイチェル様が詠唱を紡ぐ。杖を振り、その度に魔石からきらきらと落ちる光の砂。舞にも似た美しいその姿にわたしは思わず見惚れてしまう。
声が高く、声が低く、旋律を奏でていく。
光のカーテンが色を濃くし、レイチェル様の唄によってその範囲を広げていく。
そのカーテンが霧を包むその時だった。わたしの胸の奥で、ずくんと何かが蠢いている。
──
「……っ!」
胸を押さえたわたしをリアム様が支えようとしてくれるけれど、立っていられずにわたしはその場に膝をついてしまった。リアム様も共に膝をついてわたしの肩を抱いてくれる。
「……苦し、っ……」
わたしの苦しみに呼応するかのように、霧がぞわりと濃さをましていくようだ。それは光のカーテンをこじ開けようとしている風にも見えた。黒霧とわたしの呪い……どちらもピアニー様の魔力によって作られたもの。もしかしたら……わたしの呪いが、霧に力を与えているのではないだろうか。
レイチェル様の表情が歪む。
拮抗している黒霧と光のカーテンは、簡単にその盤面をひっくり返してしまいそう。いつこちらが飲み込まれるかもわからない、そんな状況にも感じられた。
「く、っそ……!」
レイチェル様の悪態に、黒霧が愉悦に歪んだのが分かる。じわりじわりと黒霧の──ピアニー様の魔力が増していくのが伝わってきた。わたしの心の奥にある呪いもその
でも、負けない。
わたしはグラナティスに帰るのだ。国を解放し、民を救い、またあの美しい森を取り戻さなければならない。それが王女であるわたしの使命なのだから。
わたしの肩を抱いてくれるリアム様の手に、自分の手を添える。険しい顔をしているリアム様だけれど、それがわたしの事を心配してくれての事だというのは分かっている。
そうだ、リアム様の魔力。
わたしの中には、今朝も注いで頂いた、解呪の魔力が残っている。黒霧とわたしの呪いが繋がっているのなら──!
わたしは両手を組むと祈りを捧げた。
この呪術の霧が晴れますように。
グラナティスへの道が開けますように。
わたしは負けない。恐ろしさも悲しみも全て、乗り越えて見せる。
解呪の式に明かりが灯るような、そんな感覚。
わたしを蝕む呪いが怯んだのが分かった。それと同時に黒霧もぴたりと動きを止める。それをレイチェル様は見逃さなかった。
両手で杖を握ったレイチェル様が大地を突いた──その瞬間、天から落ちる稲妻が呪術の黒霧に突き刺さる。びりびりと大地を震わす程の振動に身を竦めると、リアム様が覆い被さるようにして抱き締めてくれる。
掛けられていた光のカーテンが消えていく。それが消えた先にはもう、黒霧は無くなっていた。呪術の気配もなく、ただ清涼な風が吹き抜けていくばかりだった。
「……つっかれたぁ~」
その場にぺたりとレイチェル様が座り込む。
肩で大きく息をして、今にもその場に崩れてしまいそうな様子にわたしとリアム様は駆け寄っていた。
「大丈夫か」
「レイチェル様……」
グラナティスを解放する為に、その道を開く為に……ここまでして下さった。胸に何かが込み上げて、視界が滲む。
「レイチェルちゃんに任せとけって言っただろ? まぁシェリルちゃんにだいぶ助けられたけどね。まさかあの王女が呪いを介して黒霧に力を注ぐとはねぇ……ほんっとクソ王女……っと、誰かさんの口癖が移っちゃったかな」
あはは、とレイチェル様が楽し気に笑う。消耗してはいるけれど、いつも通りの明るい笑みに安堵の笑みが漏れた。
「私は道を作った。後は君の番だよ、フェルザー君」
ルーカスさんに支えられて立ち上がったレイチェル様が眼鏡の奥の瞳を悪戯に輝かせる。
リアム様は大きく頷いてそれに応えていた。
「レイチェル様、ありがとうございます」
「いいって事さ。シェリルちゃんもよく頑張ったね。まだ大変な事があるだろうけれど、君なら大丈夫だよ」
顔色が少し悪いようだけれど、レイチェル様の声はしっかりとしている。
「艦で休むか?」
「冗談。まだ私の力は必要になるでしょ。……ルーカス、おんぶして」
リアム様の問いに首を振ったレイチェル様は、ルーカスさんに両手を伸ばす。大きな溜息をついたルーカスさんは何やら文句を言いながらも、レイチェル様を背におぶった。
魔術師の方々もまだ着いてきてくれるようで、その手に杖を握り直している。
わたしは今まで霧で覆われていた森へと目を向けた。
この先にグラナティスがある。そしてそこには……ピアニー様が居るのだ。
ここまで皆さんに手伝ってもらって、わたしが怯えていてはいけない。
大きく息を吸い、ゆっくりと吐く。それだけで昂っていた気持ちが落ち着いていくのを感じていた。
「陣形を再編成。進軍する」
リアム様が手を挙げる。規則正しく揃った足並みに目をやると、先頭で指揮を執っているのはウィルさんだった。
森の中へ足を踏み入れる。
懐かしい匂い。美しい緑。そよぐ風の葉擦れの音。浮かぶ涙を指先で拭った。
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