38.近いのは太陽も、黒霧も

 空は快晴。

 じりじりと熱を孕んだ太陽の陽射しが眩くて、わたしは目を細めた。窓の硝子越しに見ているのに、力強い太陽に焼かれてしまいそうなのは、その距離がいつもよりずっと近いからだろうか。


 さっとレースのカーテンが閉じられる。わたしを腕に囲うようにしてカーテンを閉めてしまったのはリアム様だ。黒の軍服に飾られた金の飾緒、勲章がとてもよく似合っている。


「焼けてしまうぞ」

「あはは、心配性だねぇ。言ったろ、シェリルちゃん。彼は重い男だって」


 返事をしたのはわたしではなく、レイチェル様だ。

 ソファーに座ってイルゼさんが持たせてくれたクッキーを食べているその姿は、いつもの白衣ではなくて薄い青色の軍服だった。


「いつもより太陽が近い。心配しても損はないだろう」


 リアム様が溜息交じりに言葉を紡ぐ。

 わたしはカーテンの隙間からまた外を覗き見た。眼下に広がるのは雄大な森。遠くにはどこかの街らしきものが小さく見える。


 ここは軍艦。空を飛ぶ艦にわたしは居た。

 目的地はグラナティスだ。


 わたしは回されたままのリアム様の腕に手を添えて、レイチェル様を振り返った。大きな三つ編みや眼鏡はいつもと変わらないのに、服装が違うだけで何だかとても新鮮だ。


「レイチェル様の軍服姿を初めて見ました。とても素敵ですね」

「あはは、ありがとう。窮屈であんまり好きじゃないんだけどねぇ」


 レイチェル様にもわたしが王女だと告げている。大層驚いてらしたけれど、変わらない対応に安堵した。わたしは自分が思っているよりもずっと、レイチェル様との気の置けないお喋りが好きだったようだ。


 リアム様に肩を抱かれ、ソファーへ向かう。並んで座り、用意されていた紅茶に檸檬を沈めると強い香りが鼻を擽った。一口飲むと心地の良い酸味が口に広がって、小さな吐息が漏れた。


「グラナティスの霧を晴らす事は出来るんだな?」

「もちろん。このレイチェルちゃんを甘く見て貰っては困るんだなぁ」

「甘くは見ていないが……グラナティスを覆い、侵入者を惑わす霧ともなれば、高度な呪術だろう」

「第一王女ちゃんが契約している闇精霊の力だろうねぇ」


 闇精霊。

 心だけが連れ去られた時、ピアニー様の側に居たあの精霊。不気味なほどに歪んだ笑みを思い出して眉が下がった。


「呪術ってのはさ、掛ける対象者の力が術者よりも劣っていないと掛ける事が難しいんだよ。精神力、魔力、生命力、そういったものが著しく低下すればする程、対象者は術者の事を怖れ慄く。それがまた術者の力になる。

 私はあの第一王女を怖れたりはしていないし、負けないという自信だってある。それだけのものを積み重ねてきているしね。だから霧を晴らす事だって不可能じゃないんだ。準備にちょーっと時間が掛かっちゃっただけで」


 クッキーを食べ終えたレイチェル様が手をぱんぱんと払う。紅茶にお砂糖をたっぷりと注いで掻き混ぜるとざりざりと不思議な音がして、その様子にリアム様は溜息をついた。

 確かに甘そうだけど、レイチェル様はそれをとても美味しそうに飲むものだから。わたしも一度試してみたくなってしまう。まだその勇気は出ないけれど。


「シェリルちゃんが呪いを掛けられたのも、色々な事があって弱り切っていた時だ。そうじゃなければここまで強い呪いなんて掛けられないと思うんだよね。そしてシェリルちゃんはあの王女と一緒に過ごして、王女には敵わないと意識の中に植え付けられた。だからあの王女は、シェリルちゃんの中ではきっと万能の存在で、実際にそうふるまえる事が出来たんだ」

「では……ピアニー様があれだけの呪術を使うのは、わたしが恐れたせい……?」

「ああ、もちろんそれだけが原因じゃないよ。あの王女は自分を大きく見せるのが上手なんだ。私が言いたい事はね……タネが分かってしまえば、恐れる事もないだろうって事さ」


 わたしの隣で紅茶を楽しんでいたリアム様が、溜息をついてからカップをソーサーに戻した。

 長い足を組み替える、その仕草まで優雅だ。


「あの王女の嗜虐性は見世物じゃなくて天性のものだろう。経歴をざっと洗っただけで吐き気がするほどだ」

「それも上手に使ってるって事だよ」

「……わたしがピアニー様の呪縛から解かれる事が出来れば、この呪いも──」

「完全に解ける。大丈夫、私が責任をもって解いてあげるよ」


 胸を張ったレイチェル様の笑みに、わたしもつられるように笑っていた。

 ピアニー様の事は恐ろしい。思い出すだけで心の奥底まで震えてしまう。でも……わたしはもう、国を失って泣いていただけのわたしではないのだ。

 グラナティスを解放したら、わたしは──女王に即位する。国を纏め、再び興していくために。その為には自分の力で、ピアニー様を乗り越えなければならない。


「……あまり気負うな。お前一人で向かうわけではない」

「霧を晴らしても、もちろん私も一緒に行くからね。呪術魔術に関しては任せてくれていいよ」

「国を取り戻した際の宣言でも考えておけ」


 リアム様もレイチェル様も、わたしの心に寄り添ってくれる。それが嬉しくて、だからこそ……強く在りたいと心の中で願った。


 通信が入る。

 ソファーを離れて机に向かったリアム様は、その口端に笑みを浮かべて「着陸準備」とだけ仰った。


 きっとグラナティスが近いのだ。

 わたしもソファーを離れて窓に駆け寄ると、カーテンをそっと開けて外を眺めた。相変わらず空が近く、灼かれるように陽射しが強い。


 見下ろした先は黒い靄が広がっていた。きっとあれが──呪術の黒霧。

 グラナティス一帯を囲うその霧のせいで、美しかった森はちっとも見えない。


「霧がなければ、きっと森も綺麗に見えるんだろう。宝石が実るっていうのは何とも不思議なものだよねぇ。解放が済んだら少し調べさせてくれないかな」

「構いません。とても綺麗な場所なので、ぜひ見て頂きたいと思っていました」


 わたしの隣に移動してきたレイチェル様と、一緒になって黒霧を見下ろす。

 ふとレイチェル様がわたしの髪へと目をやった。


 今日の髪も花の形に結って貰っている。そこに飾られた赤い蝶を見ているようだ。


「……これ、独占欲の塊みたいなもんじゃないか」

「えぇと……?」

「蝶は魂を意味するんだよ。自分の魂を捧ぐって事だろ? しかもシェリルちゃんの赤に見せかけて、これはあいつの色だろう? はぁやだやだ。私が思っていたよりもずっとずーっと重たい男で、シェリルちゃんも難儀するねぇ」


 レイチェル様の言葉に顔が赤くなっていくのが自分でも分かる。

 蝶が魂で、魂を捧ぐ……? そんなの、嬉しくないわけがないもの。


「……満更でもなさそうで何よりだよ」


 苦笑いするレイチェル様に何を言っていいかわからなくて、わたしは曖昧な笑みを浮かべる事しか出来なかった。


 手を後頭部に回して、髪飾りにそっと触れる。

 リアム様がそう思って下さっているか、ちゃんと聞いてみたいけれど……それも中々に恥ずかしい。

 だけどわたしも、魂を捧げよう。心よりもずっと重たい、わたしの全てを。


 ゆっくりと艦が降下していく。

 ああ、わたしは──帰ってきたのだ。

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