37.前夜は月の明かりと共に
月に磨かれた夜。
お昼間の暑さも身を潜め、涼やかな風が頬を撫でる、優しい夜だった。
わたしはリアム様のお部屋にあるバルコニーに居る。無駄な装飾のない白い手摺に両手を添え空に浮かぶ星を探していると、リアム様がワイングラスを差し出してくれた。
細い
「いよいよ明日だな。緊張はしていないか」
「実を申せば、少し……。リアム様はいかがですか?」
「緊張はしていないが、気分が昂っているかもしれん。戦の前はいつもこうだ」
明日。
わたしはグラナティスに帰還する。
リアム様の率いる紫龍軍、それからレイチェル様をはじめとした魔術師の方も数人同行して下さるらしい。
うまくいけば明日のうちに制圧が完了し、グラナティスは解放されるのだろう。そうすればわたしはそのまま、グラナティスに残る事になる。
掛けられた呪いもピアニー様と直接向き合えば、解除の方向に持っていけるだろうとレイチェル様が仰っていた。そうすればもう解呪の魔力を口移して貰う事もなくなるのだろう。
だからきっと、今夜は──このお屋敷で過ごす、最後の夜。
「また寂しがっているな?」
低く笑うリアム様の頬が月映えに照らされている。長い睫毛の影が揺れて、綺麗だと思った。
「分かってはいるのです。もう会えなくなるわけではないと。それでも……何だか寂しく思ってしまって」
苦笑をワインで飲み込んで、わたしは小さく息をついた。
そういえばお酒を飲むのも久しぶりだ。最後に飲んだのはきっと、グラナティスで私の誕生日を祝う席での事。久しぶりのお酒は喉を少し焼くけれど、美味しく感じた。
「お前は本当に俺の事が好きだな」
揶揄うようにリアム様が笑うけれど、否定する事も出来なくて。精一杯の強がりで肩を竦め、視線を裏庭へと逃がした。大輪の花が風に揺れ、月明かりを受けた影を伸ばしている。
「リアム様はわたしを好いてくれていないのですか? 寂しいと、思ってはくれないのです?」
いささか拗ねた口振りになってしまったのは仕方がないだろう。
想いを聴いて嬉しかったのも、幸せを感じたのも、浮かれてしまったのも、わたしだけだったみたいで……何だか胸の奥がずきりと痛む。
「シェリル」
名を呼ばれてもそちらを向けなかった。こんな拗ねた顔は見せられなかったし、なんだか泣けてしまいそうだったから。
リアム様は片手をわたしの顎に掛けると、無理矢理にそちらを向かせてしまう。リアム様の体が月を隠したかと思ったら、唇が重なっていた。
こじ開けられた唇に注がれる、白ワイン。嚥下する事しか出来なくて、流し込まれるままに飲み込んでしまう。
唇が離れると、口端に残るワインをリアム様が親指で拭ってくれた。
「……お前が傍に居ても居なくても、俺がお前を想うのは変わらん。だが……そうだな、きっと寂しく思うのだろう」
少しざらついた声が耳を擽る。
「……リアム様のお気持ちを、本当に疑っているわけではないのです。ただ少し……それさえも、寂しかっただけで」
「いや、揶揄った俺が悪い。気持ちを全てお前にぶつけて、逃げられるのを恐れていたのかもな」
「わたしは逃げたりしませんのに」
リアム様の手が頬に添えられる。わたしよりも大きな少し硬い手の平に、自分から頬を寄せる。温もりが愛おしくて眩暈がしそう。
「逃がすつもりもないが、俺自身がこの感情を制御できていないみたいだ」
リアム様の眼差しが、声色が、触れる温もりが、わたしの事を想っていると伝えてくれている。
手近のガラステーブルにグラスを置いたわたしは、両腕をリアム様の背に回して抱き着いた。わたしを抱き留めながら、ワインを呷ってグラスを空にしたリアム様はそれをテーブルに置いたようだ。ガラスの触れ合う音がしたかと思えば、両腕できつく抱き締められていた。
「リアム様と過ごした時間は……国を離れてから初めて感じた幸せでした。リアム様、わたしを救って下さってありがとうございます」
「惚れた女を連れ帰っただけなんだが」
肩を揺らしたリアム様がわたしの髪に口付ける。間近で香るパルファムを胸いっぱいに吸い込んで、わたしは笑った。
「まさかそんな時から見初めて下さっていたなんて、あの時のわたしは思ってもいませんでした」
「あの時の俺も、ここまで溺れるとは思ってもいなかったぞ」
顔を見合わせて二人で笑う。だけどリアム様の言葉が全て嬉しくて、きっと先程のわたしの言葉に応えて下さっているのだろうと思った。
「明日は必ず俺が守る。お前の国を取り戻してやる」
「ありがとうございます。きっとピアニー様と対峙する事になりますが……不思議な事に以前よりも恐ろしくないのです。呪いがまたわたしを蝕んだとしても、あの闇の精霊が襲い掛かってきたとしても、きっと大丈夫だと。……もう恐れて蹲っていた、あの頃のわたしではないのだと自分でも思えます」
国が滅ぶのをこの目で見てきた。
連れていかれた先では寄る辺もなく、呪いを掛けられ甚振られた。
ピアニー様が恐ろしくて仕方なかった。自分は惨めでちっぽけで、傷付けられる事以外に価値はないのだと教え込まれた。
でもそんなわたしをリアム様が救ってくれた。
イルゼさんやグレンさん、レイチェル様もわたしを大事にしてくれた。
その優しい思いに、応えたい。わたしは無価値ではないのだと。
わたしでも何かが出来る。全てをリアム様に頼るわけにはいかない。
ピアニー様を乗り越える事は、わたし以外に出来ないのだから。
「……お前はあの頃から、自分の足で立てていたけどな。身代わりにされてもそれを利用してグラナティスの解放、それからルダ=レンツィオの国民の助命を乞うなんて、誰でも出来る事ではないだろう」
「そう仰って下さって嬉しいのですが……それもピアニー様から離れる事が出来たからでしょう。本当は恐ろしくて仕方なかったんですもの。それでも、どうせ命を散らすなら……命を使ってでもグラナティスを解放したかったのです」
「その気概は今も変わらないな」
リアム様が穏やかな声で笑う。
抱き締めてくれる腕が緩まったかと思えば、片手がわたしの頬に添えられて──触れるだけの優しい口付けが落とされた。
「今夜は眠れるのか? 緊張して眠れないんじゃないのか」
指摘に苦笑いが漏れた。
イルゼさんにも実は同じ事を言われてしまっているのだ。
「イルゼさんが、眠りに落ちやすいようにと精油を用意して下さっていますから大丈夫です」
「抱き締めて寝てやろうか」
「だ、だめです。無理に決まっています」
「そんなに全力で拒まなくてもいいだろうに」
「だってそんなの……眠れるわけがないですもの」
今のこの距離だってどきどきと心臓が落ち着かない。心地よくて触れていたいのに、心臓だけはひどく喧しいのだ。
そんな状態で眠るなんてきっと無理だ。
一晩中リアム様の睫毛を数えている事になりそうで……その距離の近さを想像してしまって、顔がひどく熱くなる。
「はは、照れすぎだろう」
「恥ずかしいのはどうしようもありません」
「じゃあ少し
そう笑うとリアム様がゆっくりと唇を重ねてくる。
触れ合う唇の温度が同化して、注がれるのはすっかり慣れてしまった解呪の魔力。体を巡るそれはわたしの指先まで馴染んでいく。
いつもより多く注がれたその魔力に頭がくらくらして、膝が抜けてしまったわたしをリアム様が抱き留めてくれた。
「これなら眠れるだろう。……俺の部屋で寝かせたらさすがにイルゼが怒るか」
リアム様が何か言っているけれど、返事をする気力さえない。ぼんやりとした視界に映るのは優しい金瞳と、風に揺れる紫の髪。
わたしを軽く横抱きにして、リアム様が歩きだす。その揺れさえ心地よくて、わたしは眠りに抗う事が出来なかった。
リアム様のパルファムに包まれて、幻華蝶の夢を見た。
まるで御伽噺の一幕のような、美しい夢だった。
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