19.悪意と呪術

 翌朝。 鳥のさえずりが静かな空に響く、夜明け前。

 カーテンの向こうは白い霧に覆われていて、太陽の陽射しが届かないこの時間は少し肌寒くさえある。

 窓を開けると部屋の中を巡るのは、ひんやりとした心地の良い朝の空気。それを胸いっぱいに吸い込んでから、わたしは膝をついて手を組んだ。


 どうか、グラナティスに居る民達が辛い思いをしていませんように。

 どうか、わたしの無事が伝わりますように。


 わたしは屈しない。わたしは諦めない。

 この気持ちを映す宝石が実りますように。


 魔力が抜けていく慣れた感覚に身を委ねる。グラナティスに残る人々と、それから……ピアニー様に、わたしの思いが伝わればいいと願った。



 昨日の事があって、グレンさんもイルゼさんも、いつも以上にわたしを気遣ってくれているのが伝わってくる。グレンさんには謝られたけれど、バルトさんと一緒でいいと言ったのはわたしだから、グレンさんが気に病む必要はないのにと思う。


 イルゼさんには傷を癒してくれたお礼と、部屋に来てくれたのに出られなかった事の非礼を詫びた。イルゼさんは大丈夫だと言ってくれたけれど、焼け爛れた姿を見せてしまって、何だかひどく申し訳なくなってしまった。


 リアム様は今日、お休みを取ったらしい。

 疲れたから、なんて仰っていたけれど……きっとわたしを慮ってくれているのだろう。朝に解呪の魔力を注いでからというもの、ずっとわたしの側に居て下さっているから。 だから今日はわたしも、魔石の選別作業はお休みだ。



 わたしとイルゼさんがキッチンでお菓子を作っているのを、小さな椅子に腰掛けてリアム様が眺めている。今日はレモンクリームをたっぷりと乗せたタルトで、薄切りにされた赤くて艶やかなイチゴはわたしが飾り付けをした。

 一緒にと言っても、作っているのはほとんどがイルゼさんだ。色々教えて貰いながらお手伝いをするのはとても楽しくて、いつかはわたし一人で作ったお菓子を皆さんに食べて貰いたいと思っている。


 出来上がったタルトでお茶にしようとしていた時だった。

 リアム様とわたしに来客だと、グレンさんがキッチンにやってきたのは。



 応接室のソファーに座っていたのはレイチェル様だった。背凭れに深く体を預けて大きく伸びをしている。 わたし達がお部屋に入ると、頭に乗せていた眼鏡を白衣の袖で拭いてから掛け直した。


「やあ、シェリルちゃん。昨日は大変だったねぇ」


 手を振りながら明るい調子で声を掛けてくれるレイチェル様の様子に、リアム様が盛大な舌打ちをする。それに思わず苦笑いをしながら、促されるままにわたしはレイチェル様の隣に座った。


 カートを押してきていたイルゼさんが、テーブルの上に紅茶とタルトを用意してくれる。 今日の紅茶は濃い目に淹れられているから、お砂糖の代わりにジャムの小瓶が添えられた。

 一人掛けのソファーに座ったリアム様はイルゼさんを下がらせて、応接室に残っているのはわたし達三人だけだった。


「シュタルケ君の様子も見てきたんだけどさ」


 レイチェル様が口を開くけれど、シュタルケとは……? わたしの様子に気が付いたリアム様が「バルトだ」と教えてくれる。レイチェル様もバルトさんの様子が気になっていたのだろう。


 タルトを大きな一口分に切り分けて、それを口に運んだレイチェル様は「美味しい」と頷いている。わたしはジャムを一匙、紅茶に落としてからゆっくりと混ぜた。カップを手にして一口飲むと、イチゴの甘い香りが広がってとても美味しい。


「彼は直接的な呪術を掛けられていたわけじゃなかったんだけど、呪いの気配が微かに残っていてね。どうやらシェリルちゃんに掛けられている呪いに、あてられてしまったみたいなんだ」


 レイチェル様の言葉に、肩が跳ねた。零してしまわないようにカップを持つ手に力を籠めるけれど、このままだと零してしまうかもしれない。やっぱりソーサーへ戻す事にした。


「わたしの、せいで……」


 声が掠れる。居た堪れなさにどうしていいか分からない。


「違う違う、言い方が悪かったね。シェリルちゃんのせいじゃない。その呪いだってシェリルちゃんに非があるわけじゃないんだ。そんな顔をしないで」


 フォークをお皿の上に置いて、レイチェル様がわたしの肩を抱いてくれる。気遣う言葉をくれるけれど、わたしは……やっぱり自分のせいだと思わずには居られなかった。


「言い辛いんだけど……彼はシェリルちゃんを嫌っていただろう? 悪意を抱く者っていうのは呪術に絡め取られやすいんだ。呪術っていうのは恨み妬みっていう負の感情をも利用するからね。元々抱えていた悪意が呪いの力で増幅して、シェリルちゃんを傷付ける事も躊躇わなくなったんだろうね」

「シェリルが見たルダ=レンツィオの第一王女は?」

「精神体みたいなものだと思う。呪いと悪意、それを糧に具現化したんだろう」

「わざわざ手の掛かる事をする」

「多分、彼女も……シェリルちゃんの呪いが解かれる事を感じているんだと思うよ。だから手間を掛けてまで姿を現したんだ。シェリルちゃんから畏怖される事で呪いの力が強くなるからね」


 意識してゆっくりと深呼吸を繰り返しながら、レイチェル様の言葉を胸の中で繰り返す。畏怖される事で呪いの力が強くなる。という事は……。


「わたしがピアニー様を恐れなければ、この呪いは弱くなるという事でしょうか」

「うん、そうなんだけど。……心の奥底、自分の意識も届かないような場所に植え付けられた恐怖っていうのは、意思だけでどうにかなる事じゃないんだ。まぁその気持ちを持つっていうのも大事だけどね」


 レイチェル様がわたしの肩をとんとんと優しく叩いてくれる。宥めるような優しい仕草に、緊張していたらしいわたしの体から力が抜けていった。


「リン、確認したいんだが。シェリルに対して悪感情を持たない者は、その呪いに引き摺られるような事はないな?」

「そうだね、引き摺られてシェリルちゃんを傷付ける事はないだろう。呪いの糧になる悪意が無ければ、第一王女が出張ってくる事もないよ」

「シェリルには悪いが、やはり屋敷に籠もって貰った方がいいな。関わる者は出来るだけ減らしたい」

「お屋敷に居る事は苦ではないのですが……ご迷惑をお掛けして申し訳ありません」

「お前が謝る事はない。それにしても、何故バルトはシェリルにそこまでの悪意を向けたのか……」


 口元に拳を当てて考え込むリアム様に、レイチェル様はわざとらしい程に大きな溜息をついて見せた。

 その様子にリアム様の瞳が険しくなるも、構わずレイチェル様はまた溜息をひとつ零すばかりだ。


「やだやだ、色男はこれだからねぇ」


 わたしの肩からレイチェル様の腕が離れる。わたしは何度か手を握ったり開いたりして、手が震えていないことを確認してからカップを手にした。


「シュタルケ君は、大好きなフェルザー君がシェリルちゃんに取られてしまうと思ってるんだよ」


 紅茶を口に含む前で良かった。

 予想外の言葉におかしな咳が出てしまう。紅茶を飲んでいたら確実に噎せてしまっていただろう。


「彼に姉が居るのは知っているだろう? 大好きな将軍様と大好きなお姉ちゃんが結婚する事を夢見ているのさ。だからフェルザー君の預かりになっているシェリルちゃんが、二人の恋を阻む邪魔者だと思ったんだろうねぇ」

「バルトが実家の食堂に俺を連れて行こうとしていたのは、姉と俺を引き合わせる為か」

「そうそう。でもお姉ちゃんには結婚の約束をした幼馴染がいるんだけどね」

「お前はどうしてそんなに詳しいんだ」

「何でだろうねぇ、内緒だよ」


 息を吐いてから、少し温くなってしまった紅茶を飲む。


 バルトさんからしたら、わたしは邪魔者以外に他ならなかったのだろう。でもお姉さんには想い人がいて……それは知らなかったんだろうか。知っていても、リアム様と一緒になって欲しかったんだろうか。


 リアム様と、顔も知らないバルトさんのお姉さん。その二人が寄り添う様子を思い浮かべて、胸の奥が軋んだのは……わたしだけの秘密にしようと、心の中に仕舞い込んだ。

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