18.その腕に縋って
目を開いた先に見えたのは、すっかりと馴染んでしまった借りているお部屋の天井だった。明かりが絞られているのか、部屋の中は薄暗い。
ぼんやりと霞掛かっていた思考が急激に晴れていく。何があったかを思い出した瞬間、わたしは飛び起きていた。頬に触れても痛みはなく、手に広がっていた火傷は痕も残っていない。誰かが治療をしてくれたのだろう。
寝台から降りる気にもなれず、その場で膝を抱えてゆっくりと深呼吸を繰り返す。膝を抱いて背を丸めると、
『ロズ』
わたしを呼ぶ甘い響き。鈴鳴るような可憐な声は、今もわたしを
自分でも知らない間に、この穏やかで優しい時間に体が慣れてしまっていたらしい。ルダ=レンツィオに居た時は毎日のように浴びていたあの痛みなのに、思い出すだけで体が震えるくらいに、今は恐ろしく感じてしまう。
それにしても、どうしてバルトさんからピアニー様の声がしたのだろう。
操られている? いや、まさか……。
わたしが考えを巡らせていると、部屋の扉をノックする高い音が響いた。
「シェリル様、お目覚めになっているでしょうか」
イルゼさんだ。
分かっているのに、返事が出来ない。今は……人に会うのが恐ろしかった。それがイルゼさんだとしても。
もしイルゼさんからもピアニー様の気配がしたら? イルゼさんに罵られたら、きっとわたしは耐えられない。こんな考えを吹き飛ばせるくらいに気持ちが落ち着くまで、少しだけお部屋に引き籠っていたかった。
イルゼさんはそれ以上は声を掛けてくる事もなく、立ち去ったようだった。きっとわたしが起きている事に気付いているだろうに。
申し訳ない気持ちで胸が苦しい。わたしの事を心配して来てくれたのに、わたしはそれに応えられなかった。
傷を癒してくれたのは、イルゼさんだったかもしれないのに。
涙が浮かぶ。
情けなさと恐怖と、色んな感情が
どれだけの時間が経っただろう。
涙交じりの呼吸は震えるばかりで、ちっとも落ち着いてなんてくれない。いつまでもこうしてお部屋に籠もってもいられないのに。
呼吸が整ったら部屋を出よう。イルゼさんに謝ろう。そう思った時だった。
ノックも無く、荒々しい程の勢いで扉が開いた。
「……リアム、さま」
ドアノブに手を掛けたままのリアム様は、ひどく怒っているように見えた。眉は寄せられ、金の瞳は棘を帯びているようだ。
起きているのに返事をしなかったからだろうか。それとも何か別の理由があっての事だろうか。わたしは少しでも身を整えようと、手の甲で涙を拭ってから寝台を降りようとした。
それは──叶わなかった。
大股に近付いてきたリアム様が、寝台に座ったままのわたしを両腕で抱き締めていたから。
「……すまない」
きっとバルトさんの事だろうと思うけれど、リアム様が謝る事なんて一つもないのに。
リアム様はそれ以上を口にする事はなく、わたしをきつく抱き締めるばかり。こんな時だというのに、この腕が、伝わる熱が、力強い鼓動が恋しくて……わたしは両腕をリアム様の背に回していた。
少しでも距離を詰めたくて、軍服の布地に指先で縋る。リアム様はそれを咎める事なく、わたしを抱き締める腕の力を強めるばかりだった。
「顔を見せてくれ」
腕の力を抜いたリアム様は、わたしとの間に少し距離を取りながら、小さな声で言葉を紡ぐ。どこか憔悴しているようなその様子に胸が軋んだ。
背に回していた腕を落とすと、リアム様はわたしの頬に片手を添えて、額や頬や首筋を色んな角度から見つめてくる。
「……綺麗に治っているな。良かった……いや、良くは無いな。すまない」
「リアム様が謝られる事ではございません。わたしを癒やして下さったのは……」
「イルゼだ。お前の悲鳴を聞いて駆け付けたそうだ」
「気を失う前にイルゼさんの声が聞こえた気がするのです。後でお礼を言わなくては」
「イルゼもグレンも心配していたから、元気な顔を見せてやってくれると助かる。特にグレンは……お前とバルトを二人にしてしまった事に責任を感じているからな」
「そんな……グレンさんのせいではないのです。わたしがバルトさんと一緒で大丈夫だと伝えたのですから」
リアム様は寝台の端に腰掛けると、わたしの手を引き寄せてぎゅっと握った。その手があまりにも温かくて、また泣きたくなったのを吐息に逃がした。
手を繋いだまま上掛けを避け、リアム様と同じように端に座って足を下ろす。繋いだ手が指先を絡める形に変わっていた。
「バルトさんは……」
「人を傷付ける奴では無かったんだが。今は謹慎処分を受けて実家に戻っている」
それだけわたしが憎かったという事なのか。
好かれる理由はないけれど、そこまで嫌われる理由も思いつかない。リアム様のお側にいるというだけで許し難かったのかもしれないけれど。
しかしわたしには、一つ気掛かりな事もあった。
「……肌が焼かれて、視界が覚束なくなっていたからかもしれないのですが。バルトさんに……ピアニー様の姿が重なったのです。そして、声が……」
思い出すだけで体が震える。
肌の爛れたあの臭いが、鼻の奥に残っているようだった。
「ルダ=レンツィオの第一王女か。バルトに呪術は掛けられていなかったが……念の為にもう少し詳しく調べる必要がありそうだな」
「ピアニー様は、わたしはピアニー様から逃れる事は出来ないのだと……」
「遠隔? いや……お前の呪術を介したか。嫌な事を話させたな」
「いえ、一人で抱えている事は出来なかったでしょうから……」
ピアニー様の声が鎖のように心を縛る。
わたしは幸せになれないのだと、いつかはピアニー様の元に戻る事になるのだと。
ルダ=レンツィオから離れて、自由を手にして、あとは皇国の力を借りてグラナティスを解放するだけだとそう思っていたのに。そんな未来は訪れないのだと絶望へと落とされてしまったみたいだ。
「シェリル」
優しい声に顔を上げる。繋いだ手に力が籠ったと思えば、逆手はわたしの耳を擽ってから頭の後ろに回される。
リアム様の顔が近付いて──唇が重なった。
瞳を閉じる事も忘れて、わたしは間近にリアム様のお顔を見つめていた。閉じられた瞳の長い睫毛が頬に影を残している。
いつものように魔力を注がれるのかと思っていたのに、いつまで待っても口移されない。一度離れた唇は啄むように何度も触れる。その甘やかさに、わたしは目を閉じていた。
繰り返される口付けに、眩暈がしてしまいそう。
目を閉じた世界で感じられるのは、唇の熱とパルファムの香り。
吐息さえも熱を帯びる頃に、ゆっくりと唇が離れていった。
今の口付けは何だったんだろう。魔力を頂いたわけではない。
目を開いて窺うも、真意を読み取る事は難しそうだった。まだ近い距離のまま、リアム様が私を見つめる。その眼差しはどこまでも真摯で、目を逸らす事は出来なかった。
「シェリル、お前の呪いは必ず俺が解いてやる。もうあの王女の影に怯える必要だってない。お前はただ真っ直ぐに、進むべき道だけ見つめていろ」
先程まで感じていた絶望が、色を薄くしていく。
何も恐れる事などないのだと。
「あの女がお前を引き摺りこもうとしても、何度だって俺が引き上げてやる」
力強いその声に、わたしは何度も頷いていた。
それに満足そうに笑ったリアム様は、またわたしの事を抱き締めてくれた。その腕に抗う事なんて、出来るわけがなかった。
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