12.おやすみを口移して

 涼やかな風が頬を擽って、その心地よい温度が覚醒を促してくる。ゆっくりと目を開くと小さな欠伸が吐息となって漏れていった。

 室内は暗く、足元を照らす仄かな明かりが寝台横から細い光を伸ばしている。

 薄く開いた窓のカーテンが風に揺らされて、窓の向こうは夜の色。


 部屋に戻って休ませて貰ったわたしは、寝台に横になってすぐに寝入ってしまったらしい。それにしても寝過ぎではないだろうか。レイチェル様がいらっしゃったのは、まだお昼前だったというのに。


 寝台横のサイドテーブルにはお水で満たされたピッチャーが用意されている。硝子が白く曇っていて、見るからに冷やされているのがわかるけれど、これもイルゼさんの気遣いだろう。隣にあるゴブレットを使ってお水を飲むと、ぼんやりとした気怠さがすうっと晴れていくようだった。


 頭がすっきりすると、どうしたって思い出してしまうのは初めて交わした口付けの事。

 触れた吐息も、唇の温もりも、頬に添えられた手の大きさも。刻み込まれてしまったように残っている。


「……これから、朝も夜も毎日」


 耐えられるだろうか。恥ずかしさに慣れる時はくるのだろうか。

 でもこれは、呪いを解く為に必要な事。ドキドキする必要なんてないはずなのに……思い出すだけで、わたしの胸は高鳴っている。


 解呪の為なんだから、よこしまな感情を抱いてはいけない。それはあまりにも恥知らずで、夢見がちなものだもの。



 ──コンコンコン


 ノックの音に肩が跳ねたのは、先程の事を思い出していたからかもしれない。

 返事をするとゆっくりと扉が開き、カートを押したイルゼさんが入室してきた。


「お加減はいかがですか?」

「すっかり楽になりました。ありがとうございます」

「お顔色も良くなりましたね。夕食をお持ちしましたが、召し上がれますか?」


 そういえばお腹が空いた気もする。時計に目をやれば、もう夜も深まって昨日なら湯浴みをしていた時間だった。


「何度かご様子を伺いにきたのですが、お休みになっていたので声を掛けなかったのです」

「ごめんなさい、すっかり寝入ってしまったみたいで」

「大丈夫ですよ。魔力を受け入れるのにも体力を使うと、レイチェル様も仰っていましたもの」


 にこにこと笑いながら、イルゼさんはテーブルの上に食事を並べてくれる。

 有り難くそれを頂く事にして、わたしは寝台から降りてテーブルへ向かった。



 皺になってしまったドレスを着替え、イルゼさんがお化粧を直して、髪を結い上げてくれた。イルゼさんは何でも出来るし、とても器用だと思う。色々教えて貰えるといいのだけれど。

 もう湯浴みをして休むような時間だけれど、わたしが身支度を整えていたのは理由がある。リアム様に呼ばれていたからだった。


 イルゼさんに案内された先の、重厚な樫の扉をノックする。緊張を誤魔化すようにゆっくりと息を吐いた。


「入れ」

「失礼します。リアム様、先程はご迷惑をお掛けして申し訳ございませんでした」

「迷惑? その考えは捨てるようにと、さっきも言ったはずだが。解呪の後に眠った事なら、加減を見誤った俺が悪い」

「いえ、リアム様は何も……」

「それならこの話はもう仕舞いだ」


 書類から顔を上げたリアム様は、設えられているソファーを顎で示す。わたしは促されるままにそのソファーへ腰を下ろした。


 この部屋はリアム様のパルファムが強く香っている。

 不快感はなく、むしろとてもいい香りなのに……落ち着かないのは、先程のキスを思い出してしまうからかもしれない。


「お前、宝石への造詣は?」

「加工は出来ませんが、多少の鑑定なら覚えがございます」

「裸石から魔石を選び出す事は?」

「出来ます」

「上々だ。皇国に滞在する間、お前にも仕事をして貰いたい」


 仕事をさせて貰いたいと願い出るつもりでいたわたしにとって、リアム様からの申し出はとても有り難い事だった。

 何もしないでいるのは心苦しすぎる。自分に出来る事は何でもするつもりでいた。


「ありがとうございます」

「何かしていた方が気も紛れるだろう。魔術師団で大量に裸石を仕入れたのはいいが、仕分けるだけの手が足りないらしくてな。お前がやってくれるなら助かるとリンが言っていた」


 リンと聞いて思い浮かぶのはレイチェル様だ。

 わたしの仕事の為に、二人で考えてくれたのかもしれない。


 磨かれて加工を待つ裸石には、魔力を多く蓄えて魔石となっているものがある。それは魔術の媒体に使われたり、魔導具の動力になったりもする。

 しかし一見しただけでは裸石も魔石も区別がつかない。見極める技術が必要なのだけれど、わたしはそれを習得していた。


「精一杯勤めさせて頂きます」

「空いた時間は好きにしてくれていいが、外に出るなら日傘を忘れるなよ」

「はい、ありがとうございます」


 リアム様はペンを机の上に置くと、首をぐるりと回してから深く息をついた。今日はお休みだと聞いたけれど、持ち帰りのお仕事があったようだ。


 立ち上がったリアム様はソファーに座るわたしの隣に腰を下ろす。


「さて、そろそろ休む時間なわけだが。眠れるのか?」

「……どうでしょうか。イルゼさんが本を貸して下さるそうなので、それを読んで眠くなるのを待とうかと」

「じゃあもう一回酔っぱらうか」


 酔っぱらう……とは。

 それが先程のキスの事だと思い至ったわたしは、顔が一気に赤くなることを自覚した。近くでその様を見ていたリアム様は可笑しそうに肩を揺らす。


「初日だから仕方がないが。その内に慣れてもらわないとな」

「……慣れるものなのでしょうか」

「繰り返せば慣れるだろ」


 そういうものだろうか。

 この胸の高鳴りも、恥ずかしさも消えてしまうのだろうか。


 いや、消えていいはずなのだ。これは呪いを解く為で、義務のようなものなのだから。


「明日は出仕するから留守にする。何かあればグレンもイルゼも頼るといい」

「はい。皆様には本当に良くして頂いて、ありがとうございます。……窓に掛けられたカーテンは、全てわたしの為ですよね」

「そうだが気にする事はない。窓の雰囲気が変わって悪くないからな」


 優しさに胸が詰まる。

 ここまでして頂いているのに、わたしは……隠し事をしている。

 グラナティスが解放されたら必ず明かすから……だからどうか許してほしいと心の中でそう思った。


「明日の朝だが、起きてすぐと、俺が出仕する時とどちらがいい?」

「えぇと……解呪の、ですよね。リアム様の宜しい時を選んで頂ければ……」

「では出仕の時にしよう。見送りに出てくれ」

「それはもちろん」


 お仕事に向かう前に魔力を注いで貰うのは申し訳なくもあるけれど、リアム様が良いと言うなら甘えていいのだろう。


 リアム様はソファーの背凭れに腕を掛けると、逆手をわたしの頬に添えた。

 近付く距離に、これからの事を予感してしまう。


「じゃあ、今夜はこれでおやすみだな」


 わたしが返事をする前に、リアム様の顔が近づいてくる。美しい金の瞳に映る自分を見ていられなくて、わたしは固く目を閉じた。


 温もりが触れる。薄く開いた唇から魔力が注がれる。

 唇から胸の奥に広がる熱が、指先にまで波のように広がっていく。


 温もりが唇に馴染む頃、ゆっくりとリアム様が体を離していった。

 それを合図に目を開けるけれど、はじめての時よりも眩暈がしない。体は熱いし鼓動もおかしくなっているけれど、ぐらぐらと世界が揺れる感覚はない。


「……これくらいが限度か……いや、まだいけるか? 加減が難しいな」


 調整してくれたのだろうリアム様が、拳を口元に寄せながら小さく呟いている。それを目で追いかけると、どうしたって視線がいってしまうのは唇で。

 それが恥ずかしくて、意識して目を伏せた。


「ありがとうございました。……そろそろ、失礼致します」

「部屋まで送るか」

「いえ、大丈夫です。まだ歩けますので」


 そっと立ち上がってみるけれど、問題なく歩けそうだ。リアム様は明日もお仕事なのだから、これ以上煩わせるわけにはいかないもの。


 リアム様もそれ以上は何も言わず、扉まで一緒に歩くだけだった。扉を開いて見送ってくれる。

 わたしは膝を折って就寝の挨拶をしてから、お借りしている部屋へと戻った。



 唇が熱い。

 本当に慣れる時なんてくるのだろうか。そんな事を思いながら見た夢は、懐かしい宝石の森だった。

 輝く宝石達の中、陽射しを体に受けながら走り回った──優しい夢。

 今は手の届かない、美しい時間だった。

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