泳ぐのは今日で今年最後だろう、と俺は思った。

 体育の時間だ。

 まだまだ日差しが肌を焼きかねない時期で、体育の時間である。しかも日差しはほぼ垂直。一番太陽の熱を感じる時間帯でのこれは、ちょっと堪える。


「……」


 そして俺が取り出したのは、水はけの良さそうな青色のバッグだ。

 中身は水着と、ゴーグルと、タオルである。


 実は先日、このクラスに対して体育科目の先生から連絡があったのだが、その先生のスケジュールミスで、もう一時間だけ水泳の授業が必要になったらしいのだ。

 一体どんなミスをすればそうなるのだろう、と思ったのだが……まあ、突然双子が現れる様な世界だ。そういう事もある。


 幸い他の学年では水泳科目を行っていた様で、プールの準備には問題ないとの事。

 その証拠に、更衣室に入る前で先輩達とすれ違った。着替え終えた後ぐらいでプールサイドに点呼を取るから、別のクラスの水泳科目と連続していると、こうして顔を合わせることがあるのだ。

 更衣室に入れば、男達はわいのわいのと着替えを始めた。十五あるいは十六という年齢で、はしゃぎ回る者は少数派だ。


「なあなあ、双子の着替えって見放題だったりするのか?」


「……」


「う、凄い目……。なんでもねーぜ、あとスマン」


 はしゃぎ回る人間が少数派ではなく、ゼロだったならどれだけ嬉しい事か。下手したら明をも上回る変態性を持ち合わせた男を、目線で追い払う。

 顔、覚えてるからな。この日ぐらいは。


 青色の迷彩柄と特徴的なロゴが描かれた水着を履いて、しっかり紐を結んでしまう。しかしこの紐、どうも解け易い。結んで、試しに軽く動くと、すぐにほつれた。



「所で下着姿と水着姿の違いって何なんだ?」


「使用目的とか、生地じゃないのか」


「いや、違うね」


 また男どもが変な話を始めた。耳を向けるまでもない。無視して、脱いだシャツやズボンを適当にたたんでロッカーに収める。そしてまた紐を締め直す。今度は解けない。多分。


「露出面積という点では、下着と水着にそう違いは無い。機能もだ。下着の機能に、撥水性とデザインだけを加えた様なもんだからな。違うようで、そんなに違いは無い」


「そうか。……それで、何が言いたいんだ?」


 取り合えず紐をキツく結んで、少しの衝撃で解けない事を確認してから更衣室を出る。そこから先はもう、プールだった。


「パンツ一丁の俺達! ワンピースで肩から腰まで包んだ女子達! これは不公平だッッッ!」


 プールには着替え終わった女子が数名。背後の声に、うるさいなコイツら。と心の中で呟く。女子は眉を顰めていた。


「うるさいわね男子達」


 名も知らない他人と気が合うのは、多分今日が初めてだった。



 ・

 ・

 ・



「男性陣はああ言ってるけど、明一はどう思ってるの?」


「答えづらい問いだな。どう、と言われても」


 順調に授業が進んで、後半では各自で自由に何かしらの泳法の練習をすることになる。

 割と運動は苦手な方だが、比較的やり易い平泳ぎの練習の列に並んでいる中、横から聞き慣れた声を掛けられた。プールを半分に、そのスペースを男女に振り分けて行われているが、特に厳しい入国制限があるわけではない。


 問いかけへの答えを控え、ちらと横を見れば水着姿の明が居た。例に漏れず地味な紺色の水着だが、以前の学校で使っていた、所謂スク水では無い。形状はスク水や競技用水着に近いかもしれないが、両脇から斜めに入れられたラインが、見た目をスタイリッシュにしている。


「ファッションにも、女子にも興味が無い男としては、どうにも」


「本当に?」


「興味を持っても、行動するほどの気概はない。で、そっちの方は? 人並みに身だしなみは気にしてるんだろう?」


「どっちかと言うと、まあ。世間体の中で無難に生きていく上で仕方なくね。ママのお陰で、やろうと思えば着飾れるけど」


「そうなんだな」


 母の影響を受けても、やはり根っこは変わらないのだろう。

 しかしそうなると、少し気になる事がある。


「じゃあ、それは?」


 目線だけで、明の水着を指す。あの言い方だと、本来なら中学のスク水でも十分だったという事になるが。


「ママが」


 なるほど。まあ問うまでも無かったか。

 大方、水泳の授業に水着の指定は無いと聞きつけて、水着の買い物に付き合わされたのだろう。勝手に水着を買ってきたという線もあるが、それなら明の水着はもっと派手になっている筈だ。


「でも、ママがどう思おうと最終的に買ってたと思うよ? サイズの事もあるし」


「サイズ?」


「……ゴッホン。で、そっちこそどうなの?」


 話逸らしたな。いや別に構わないが。


「水泳の授業がある事を伝えたら、明日にはコレを持った母が……」


「ママが? あ、なるほど」


 母の事だ。明も早々に察しがついたのか、苦笑する。


「紙袋にも入れず持って来た」


「そう来たか」



 そんな感じで言葉を交わしていると、順番が来た。このまま話している訳にも行かないから、水面に身体を沈める。


「戻らなくて良いのか?」


「いや、泳いでる姿を見てから戻るよ」


「そうか」


 別に泳ぎは特別得意ではないから、参考にはならないだろう。明もそれは分かっている筈だ。きっと休憩ついでに見学するつもりなのだ。

 順番を待たせる訳には行かない。すぐに片足を持ち上げて壁を蹴ると、直立姿勢で進み続ける。足を動かして、連動して手も動かして、それを反動として利用する様に顔を持ち上げて、息を取り込む。


「ふうん」


「むぐ」


 水が口に入りそうになりつつも、呼吸と泳ぎを続ける。


「思った通りに遅い」


「ごぼっ」


 今度は普通に口に水が入った。反射的に吐き出してしまって、一度息をし損ねる。それどころか息を吐ききってしまって苦しい。

 やっぱり厳しい、一度プールの底に足を付けて、仕切り直した。


 それを何度か繰り返しつつ、何とか反対側に辿り着く。ここが川だったらとっくに流されていただろう。


「はあ……」


 やはり疲れるな、これは。夏の暑さからは逃れられるから、身体に熱を溜め込んで消耗することは無いが……。



 息を整えながら反対側を眺めていると、丁度明の姿を見つけた。泳ぎ始めるところの様で、俺は何となく観察することにした。明が並んでいたのは平泳ぎの列だった。

 壁を蹴って初速を得て、少し進んでから手足を動かしていく。


「……」


 なんというか……思った通りと言うか、俺自身の映像を見ている様な感じがする。ほら、丁度今水を飲みかけて、ゴボっと空気を吐き出した。

 期待していなかったが、実際に見てみると参考になるな。もう少し、手足のリズムを見直してみると良さそうだ。息が乱れても、手足の動きがバラバラにならない様な意識も大事だ。

 と、偉そうに分析してみるが、俺は別にインストラクターだという訳じゃない。正確な評価は先生にでも見てもらわないと分からない。

 しかし、今俺が感じた単純な違和感ならば、単純な往復練習でどうにか出来る筈。多分。


「もう一回やってみるか……」



 ・

 ・

 ・



 足を付けてしまう地点の距離が伸びた。明の動作を参考にして、そして改善に成功するとは。我ながら驚きである。ただ一度に泳ぐ距離が延びた分、滅茶苦茶疲れる。

 その休憩がてらに、反対側に辿り着いた後に明の事を観察すると、向こうも同じように改善していた。今まで何度も思っていたことだが、まるで鏡みたいだな。


「ん……ぷはぁっ! ……ふう」


「お疲れ」


「おー、お待たせ」


 パチン、と、何となく挙げた俺の右手に向かってハイタッチする明。


「……む」


 その時に明の脇が見えて、全身から落ちる水滴も相まってなんとも言えない気分になる。


「どうだった?」


「あ、ああ……ゴホン。双子の成長っていうのは、なかなか感慨深い物があるな」


 瞼に力を込めて瞬きをする。網膜に焼きついた明の姿が消えた気がした。

 切り替えた思考で、上達した泳ぎについて考える。このまま交互に泳いでいけば、普通にクロール出来そうな気がしてくる。そうするには時間が足りないが。


「やっぱり距離伸びてるよね。うん、成長して……、胸じゃ無いよね?」


「何をどうしたらそうなる。そもそも以前の胸なぞ知らんのに、どうしてそれが成長していると言えるんだ」


「そっか。まあ確かに、そっちも泳げる距離伸びたもん」


「ああ、明の泳ぎが参考になったぞ」


「私は明一のを真似ただけだよ。……しかし」


 何故にそんな深刻そうな顔をしているんだか。それと無言で胸に手の平を乗せないで欲しい。

 今日の明は、何というか、ある意味で見ていられない。今直ぐにでも明にタオルでも被せて、心の平穏を取り戻したくなる。


「成長……」


「ぐ……それほど気にするものなのか」


 目を逸らして言う。身体のラインが良く見える今の恰好だと、胸の大きさは一目で分かる。それなりの胸はある筈だ。コンプレックスを感じる程でもない。

 しかし、やはりと言うか今の明を見ていると目に毒で、明の事が視界に入らない様にと、額を掻くふりをする。


 それとは別で視界に入ったのだが、列に並ばずプールを眺める人が増えてきた。時間も少なくなり、確かにあの列に並んでも順番は回ってこないだろう。


「……もう十分だろう」


 その言葉を聞いた明は、何を勘違いしたのか、俺の方にギョロっと振り返った。なんだ、その目で見てもレーザーなんか出ないぞ。


「明一?」


「なんだ」


「成長を諦めた女は、下流なのだよ」


「そうだな」


「そう流されると傷つくんですが!」


 ……そんな目で凄まれても、今の俺じゃあどうにも目を合わせられない。


「泳ぎだ。泳ぎの話を言っている、このムッツリ。もう泳ぎに行く時間も無い」


 誤魔化したつもりでは無い、もとからそのつもりで言っていた。勘違いはやめて欲しい。


 まさかとは思うが、母の厄介な特性まで引き継いでないだろうな? そう訝しんでいる俺をよそに、明はあからさまな安堵を抱いて溜息を付いた。


「そっかぁ。……いや絶対胸の事言ってたって」


「明がそう思うならもう良い。どっちにしろ事実だ」


 明はムッとして一歩踏み寄った。否定をしない所は評価しよう。


「まぁ? それならぁ? 私は別に良いんだけどー」


「ああ」


「……でもムッツリって」


「変態と言わないだけマシだ。そろそろ授業終わるぞ」


「むう」



 ・

 ・

 ・



 珍しく、明の事が疲れると思ってしまった。やはり性別に関わる部分は、自分との対話の様に行かない。


 更衣室に戻って、着替える前にタオルで体を拭っていると、ふとある疑問を抱く。

 もし明が身体的なコンプレックスを抱いていたとして、対して俺には何のコンプレックスもない、と言うことがあり得るだろうか? 


 更衣室の中、体を見下ろす。他人と比較したことが無いから、コイツが長いのか短いのかがよく分からない。確かに更衣室等と言った場でなければ、他人の物と見比べる機会がない。

 対して女性は……比較しやすい。道を歩いて、ふとすれ違った女性のと見比べるくらいは十分可能な筈だ。ひいては、もし自らのが劣っていたならば、劣等感を抱く機会や回数も増えてくる。

 多分。これは男性としての目線から成る妄想である。


 男が女を理解するにはやはり人生経験か、と、乾かした身体に制服を着せる。太陽光や視線を遮る衣服の安心感を取り戻して、ふう、と息を吐く。


 色々考察したものの、ネットで拾った雑学ばかりで、人生経験の浅い俺では、妄想か或いは妄想の域をなんとか脱した稚拙な考察にしかならない。

 そうだとしても、明は気にしすぎだと思うし、性別を気にしなさすぎだと思う。お陰で気が休まらなかった。


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