文芸部の窓辺の百合

後輩のターン

 ここ数年の流れとなった八月の猛暑。今年も例年と違わず最高気温が体温と同じかそれ以上というおおよそ人間が活動するべきではない環境と相成った。

 しかし、運動部である以上は練習はしないといけない訳で、私も類から漏れずに最大限の熱中症対策と活動制限の下で鍛錬に励んでいた。

 一般的な部活動の時間などはわかるわけがないが、私たちのようなお手軽テニス部だと週に数回の午前中だけの練習で終わってしまう。今回も例外ではなく正午には運動場から出て制服に着替える。ここからの私は誰がなんと言おうと文学女子だ。

 特別等の階段を駆け上がり四階にたどり着いた。階段からすぐそこにある窓のない真っ白なドア。先達が適当に作ったようなプレートがないと誰もここが文芸部だとはわからないだろう。それくらい雑なスタンスでも生き残っている文化部の一つが、我らが文学部であった。

 部室に入ると、ただの部室であるにもかかわらずなぜか設置されているキッチンの前で先輩が何かの作業をしていた。

「こんにちは先輩、なにしているんですか?」

「ん? ちょうど紅茶を入れていたところ。ちょうどいいし君の分も用意するよ」

 邪魔な荷物を部屋の隅に適当に置いて部室唯一の長机、そのいつもの定位置に着いた。

 先輩がカップを二つ持ってくる。そのうち一つは私の前に、もう一つは先輩の定位置に置いた。飾り気のない白一色のカップ、中身は透き通った紅いお茶が並々と注がれている。そしてそこからは白い湯気が立っている……。

「ってなんでホットなんですか‼ しかもよりによってこの地獄のような炎天下で運動していた人にこれを⁉」

「あっはっは、ナイスツッコミ」

 先輩がこっちを見ながら良い笑顔でサムズアップしてくる。正直なところすごくウザい。

「そうじゃなくて‼ だって氷を少し入れておけば自然とアイスになるでしょ⁉」

「うーん、じゃあ氷がなかったってことで」

「あの冷凍庫は飾りですか⁉」

「うん」

「なんでっ⁉」

 カラカラ笑う先輩を横目に勢いよく飛び出した人差し指を戻す。

「まあまあ、落ち着いて。私のアイスティーと交換する?」

「今までの会話のイミはっ⁉」

 やっぱりカラカラと笑う先輩に私は、これみよがしにため息をついてみせる。とはいえ先輩がアイスティーを持っているのなら交換してもらえば良い。彼女の目の前にあるカップに自然と目が行く。この部活に入ってからひと月がたった頃、先輩が突然休日に私をショッピングセンターに呼び出していた時に一緒に買った思い出の品の片割れ。私の使っているカップと同じデザインで、違うのは底面に入れた名前のみ。確かにその上面から湯気はたっていない。

「それでどうするんだい? 私としては交換しても別にいいんだが。ああ、とはいえ間接キスになってしまうか。いや、別に同性同士なら問題にならないか」

「⁉ そっ、そうですね、女子同士で交換するなんて普通ですよね‼」

 まさかの角度からの流れ弾が直撃した。カップの、いつも先輩が口づけしている部分に視線が集中してしまう。エアコンがついているはずなのに顔が熱い。

「ん? なんか顔が赤くないか? 熱中症なら帰ったほうがいいぞ?」

 少しにやにやした顔であおってくるのが視界の片隅見えた。そんなことを気にする余裕なんてないのに。

「いえ、大丈夫ですっ。それよりアイスティーもらいますねっ」

 空気と顔の熱さと、あとはからかうような視線から耐え切れなくなった私は先輩からカップを奪い取って一思いに飲む。一口で全部飲みきれないあたりが、こんなからかわれるキャラの成因の一部としか思えない。

「おやおや、とうとう間接キスしちゃったねぇ。私のファーストキスは君とも間接キスかぁ、まあ悪くはないか」

「あっ、えっ、あぁ⁉⤴ 初キス!? いやっ、でもっ、間接キスは含めないんじゃっ⁉」

「たしかにそれは一理あるなぁ。しかも一方方向だしなぁ」

 思案顔で立ち上がった先輩が私の隣の席に移ってきた。私が物理的な距離の突然の消失にオーバーヒートして言語能力を喪失しているうちに先輩は私の目の前の、私の飲みかけのカップを手にして残り半分を一気に飲み干した。

「これで初キスってことでいいかな?」

「……きゅう」

 私は目の前で起きたことが理解できずに思考を放棄した。


 ……目を開けたらそこは知らない天井だった、なんてことはないし、そもそも私の視界のほとんどは天井以外のもので占められていた。私としてはそっちのほうがよかったのだろうとは思ってしまうくらいにはこの状況は私の心臓には悪い。現実逃避はやめよう。私の目の前にはドアップの先輩の顔があった。

「お、目を覚ましたか。よかったよかった」

「えっと、え?」

 なんだこの状態? 私は今先輩からのぞき込まれているのか? そもそも私は今先輩に膝枕をされているのだろうか、もしかして。

「さて、君も目を覚ましたことだしそろそろ帰るとしようか」

 膝に乗った私の頭を椅子におろしながら先輩が言う。立ち上がってカップを流しに持っていくのも早くて、それがなんか残念のような寂しいような感じがしてしまって、つい先輩の後姿を目で追ってしまう。

「どうしたんだ? 物欲しそうな顔をして。早く片付けしないと鍵を返すの押し付けるぞ」

 私が職員室という一種特殊な空間を苦手としていることを知っている先輩がこの場面においてはおそらく、最も効果的な一言を放り投げられてしまった。名残惜しいが私も帰りの準備をする。ふと窓の外を見ると、南側に開く世界は既に赤く染まっていた。


「それじゃあまた明日」

 ドアに鍵をした先輩が私に向かって言ってくる。毎日言われていることだが、何回言われても少し悲しく感じてしまうこの気持ちだけには慣れることができない。

「あっ、えっと」

 しどろもどろになりながらうつむいた私を先輩は、心配そうにのぞき込んでくれる。それが少しうれしい。

「うーん……ちょっとこっち向いて」

 いきなり呼ばれてつい、先輩の言葉に疑うことなく従ってしまった。

 予想以上に近い瞳、鼻と鼻がぶつかった。驚いて一歩下がってしまったら、先輩はそれに合わせて一歩詰めてきた。慌てて顔を背けようとしたら顔を両手で固定してきて急激に顔が近づいてきた。

 唇が触れた、気がした。

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