此処
「はぁー…………」
朝からもう何度目だろう。味のしない朝ご飯を食べながら5回くらい溜息が出たあとは、もう数えることすらしなかった。
パミナが卒業する。
ネットニュースも掲示板も、その話題で持ち切りだ。なんたって日本でいちばん投げ銭を稼ぐスーパーアイドル配信者だ。なぜ卒業するのか。円満な卒業なのか。病気か心労か。結婚か妊娠か。もしくは事務所とのいざこざか。メンバーとの不仲か。はたまた某国の陰謀論なんてのも飛び出して、そのどれもが嘘くさくて。本当のこととは思えなくて。ファンの、いや僕の心をかき乱している。
来月のアタマ。7月の1日に引退だそうだ。
「民生お兄ちゃん。……大丈夫?」
照り返すアスファルトしか見ていなかった。いつの間にか学校の校門前に着いていて、白い半袖ブラウスの妹が心配そうに僕の顔を覗きこんでいる。
大丈夫なもんか。推しの配信がもう見れなくなるんだ。過去の動画は残るらしいけれど、彼女がどんな配信を、誰と、どんなふうにするのかとかさ。もう二度とわくわくすることができなくなっちゃう。切り抜き動画に彼女が登場することはもうないし、トークの端々から見える彼女の性格や感情や考え方、ちょっとしたプライベートな部分も、なにもかもがもう失われてしまうんだ。金輪際、彼女の配信にコメントもできなくなってしまうし、彼女の言葉ひとつひとつにレスポンスすることもできない。ほかのファンが送っているコメントを見て共感することもできなくなって、ファン同士が彼女を中心にして生み出すあの一体感が、永遠に失われてしまう。
彼女のことを応援していたいっていうこの気持ちも、もう二度と、誰とも共有できなくなってしまうんだ。
そんなのってないよ。
そんなの……
「……つら過ぎるよ」
それだけ妹に答えて、僕は背を向けた。
僕らが通う学校は小中一貫校で、妹は小等部だから逆方向だ。
妹の心配そうな視線は背中に感じたけれど、情けない兄貴で申し訳ないが今日の僕はそれどころじゃない。
朝からにぎわう中等部の玄関も、やんちゃな男子が走り回る廊下も、ざわざわと永遠に静まらなさそうな教室も、笑顔で挨拶してくれるクラスメイト達でさえも、すべて色を失って見える。
自分の机に着席してスマホを取り出し、こりもせずにネットニュースを開く。卒業、の文字を見て、どこまで行っても抜け出せそうにない闇の中のような、陰鬱な気分になる。何回みてもその現実は変わらなくて。教室にはほかのみんなもいるっていうのに、気を抜いたら僕は涙してしまいそうになる。
着信音が鳴り響く。非通知だ。それにビデオ通話。いや、そんなことより……
「あ、タミオくん!いけないんだー!先生が来る前に、マナーモードにしときなさいよぉ」
クラスの目ざとい、いや耳ざといか。女子が僕に向かって注意する。僕は立ち上がり、声を無視するように教室のドアを抜けて男子トイレに向かった。扉を開くともう始業の5分前ということもあってか、そこには誰もいなかった。それをいいことに僕は、あまり利用したことのない洋式便座の個室に入ってトイレのフタも開けず腰掛ける。
通話ボタンをタップした。
「あ!?あわ、あわわわわ…………」
僕の口からそんな言葉ともとれない音が出た。
僕の、スマホの中に、パミナちゃんが、現れた。
スマホの壁紙なんかじゃない。彼女が金髪を揺らしながら僕に笑顔を向けて、そして手を振っている。
「おはパミナー♪民生くん、いまちょ……」
「あっ」
やべ。驚愕と混乱のあまり思わず通話を切っちゃった。
そういや忘れてたっていうか、夢か、もしくはパソコンの不具合か何かだと決めつけちゃっていたけれど思い出した。パミナちゃんがパソコンの中から僕にだけ話しかけてくれたことを。昨日のあれって夢だったんじゃないのか?いや、パソコンはしっかりと壊れてて、お父さんに海外のポルノサイトでも見たのかって、あとで叱られたけどさ。
また着信。マナーモードにはさっきしたから音は出てないけど、またビデオ通話だ。
僕は慌てて髪型だけでもなおす。ああ、鏡がほしい。彼女にカッコ悪い姿を見られたくない。でも彼女と話がしたい。
そんな心のせめぎあいはほんの一瞬で、髪の毛をいじりながら僕の指は自分でも驚くくらいに躍動して通話ボタンをタップする。
「……いや、あのさ。私の認識が間違ってたのかなぁ。私って、キミの推しだったと思うんだけどさ。なんで推しからの電話を切れるのかなぁ?」
お、怒ってるぅー!腕まで組んで、怒った表情をしてるぅー!
「ご、ごめんなさい。慌ててて、ま、間違って、押しちゃって……」
これは頭を下げるしかない。誠心誠意、平身低頭して平謝るしかない。それはもう頭を地にこすりつける勢いで。いや、ここはトイレだからそれはしないけど。
「んー。……許そうっ!時間も限られてるし」
「あ、ありがとうございますっ」
よかった。彼女の腕がほどかれて、表情も真顔に戻った。本当のところは、僕は彼女の笑顔が見たかったんだけれど。
「私の卒業が決まったことは、民生くんも知ってるわよね?実のところ、私まだ『Queen of nighit』を卒業したくないの。それでね?お母さ……、じゃない。事務所の社長から、卒業したくなければあなたと協力して、あることをするように頼まれちゃったってわけなんだけど……」
「……………………」
ごめんなさい。もう一回お願いします、とは言いづらかった。なんとも不可解な頼まれごとだ。いや、冷静になって考えてみれば、彼女が僕のスマホに通話をかけてくること自体がすでに不可解というか、現実的にありえないことなのだけれども。
「急にごめんなさい。でもね、卒業が発表されたいま、もう頼れるのは民生くんしかいないの……」
配信の時の彼女からは想像すらできない、伏し目がちの思いつめた表情。僕だけに見せる、その顔。ああ、なんて可愛いんだろう。可愛いは正義、と誰かが言ったけれど、抱いている不安なんかすべて忘れて、何ごとも許してしまいそうになってしまう。
それを僕は、必死に思いとどまった。
すぐにコメントを打とうとして、これが配信じゃなくて通話だということを思い出す。
「あの……。ちょっと、内容が分からないので……、協力しますとはすぐには言えないんですが……。その……、あることをすれば、パミナちゃんは卒業しなくて済む、ということですか?」
言いながら僕は、不思議に思う。配信中のコメントでは「応援してるぜ!」とか「頑張れよな!」とか「すごいじゃん。よくやった!」とか、果ては「ずっと愛してるからな!」なんて生意気にタメ口で言葉を伝えているのに、実際に二人で通話するとなると、こんなふうに敬語になってしまう。
ネットで強い言葉を吐く人ほど小さい人間、とどこかで聞いたことがあるけれど、こういうことを言うのだろう。
「そうそうっ!そういうことなの。で、その内容なんだけどね…………」
「っ!……あ。……え?」
また非通知着信。
かと思ったら僕のスマホが勝手に操作されて、声だけの誰かが僕らの会話に割り込んできた。
「吾輩を破壊するように言われたのだろう?」
「え?」
次から次になんなんだ。僕はもう混乱でお腹がいっぱいだってのに。パミナちゃんの顔が驚いた表情に変わり、続けてたじろいで、そして身構える。
「ザラストロ…………ッ」
彼女の口から出たのは、やはり僕が今まで聞いたこともない名前だった。
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