第1話 才能があればね


 不意の死を直感した時の絶望感。それがきっとあの時の感情。

 鬼人おにに出くわしたのは初めてだった。落ちてきそうな曇天の下、降りしきる雨の中、陽光の届かない地下道での出会い。

 台所包丁を片手に荒い呼吸を繰り返し、焦点の合わない瞳で、制服姿の私達を嘗め回すように見る。乾燥して皮の剥がれた厚い唇から「へへっ」と嬉しそうな声が漏れた。


「お嬢ちゃん達、今、学校帰りかな……」


 私を含めて、一緒にいた二人が息を呑んだ気配がした。多分悲鳴も上げてたけど、私には聞こえなかった。私の脳は、目の前の鬼人でとっくにキャパオーバーを起こしてた。

 鬼人は、出会ってはいけないものだ。鬼人とは、その名のとおり「鬼となった人」で、鬼に棲まれた人は、もはや人ではない。人を殺して食うだけの、ただの化け物に成り下がる。

 そして、鬼人に食われた人は、鬼人の瘴気に穢される。穢された人には、いつか鬼人が宿る。だから、穢れた人間はユースティアが経営する病院で特別の治療を受け続けなければいけない。そして、治療を受けたからといって穢れが完治する保証はない。

 だから、鬼人には、遭遇してはいけない。遭遇は死を意味するから。

 地下道で、私達は立ち尽くした。目の前にいるのは、四十歳くらいの男の人だ。

 そう、ただの男の人だ。グレーのニット帽をかぶった、ただの男の人。

 ただ──その目はギラついて、獲物を狩る前の品定め中だ。


「大丈夫だよ……おじさんは鬼人じゃないよ……」


 使い古された茶色い革靴が、音を立てながら私達に向かって来る。


「ああぁぁぁぁぁ!」


 早希さきが、悲鳴を上げて走り出した。私達二人を置いて、私達の後方へ。


「ぅ──」


 その悲鳴が、唐突に止まった。いや、前兆はあった。私達の前にいるおじさんがその包丁を投げつけ、迷わず飛来したそれは私達の真横をすり抜けたから。

 早希が悲鳴を上げてから走り出して、僅か一秒も経っていなかったから、早希はほんの一メートルすら走ってなかった。ほんの二メートル先にいる子供の背中に包丁を投げつけて命中させることなんて簡単なんだと分かった時、私は死ぬんだと知った。

 呻き声と共に倒れた早希がまだ呻いてる。痛いとか、助けてとか、痛いとか。千切れたトカゲの尻尾ほどの元気はないにしろ、早希はまだ動いていた。私達は動けなかった。

 だから、おじさんは、動いている早希の隣に立って、その背中を滅多刺しにした。

 飛び散る鮮血と、友達の呻き声と、愉悦に歪んだ表情と──。全てを、私達は知ってしまった。いつの間にか足は立つことを忘れてたし、私達は雨の日の靴に汚されたタイルの上にへたりこんで、ただ茫然と全てを眺めていた。

 動かなくなった早希を、荒い呼吸で満足気に見つめるおじさんが振り向いた。私達には、早希のように悲鳴を上げる余裕がなかった。


「大丈夫……鬼人じゃないんだから……」


 おじさんが、その薄黒い顔に満面の笑みを浮かべた。ただ、その笑みは気持ちが悪かった。そして、その包丁が振り上げられた時。


「Liz pendlum, et shinebe en penexis hanut, Akuglin.」


 甲高い女性の声と、知らない言葉。それが聞こえた瞬間に、おじさんの動きが止まった──いや、止まったと言うのは変かもしれない。突然、水のロープに縛り上げられ、不自然に体がグッと緊張した姿勢で硬直したのだ。そして、カンカンカンカンカンッと地下道を疾走する足音がしたかと思うと、次は男の人の低い声が聞えた。


「Liz pendlum, et shinebe en penexis acowein, Gilbrass.」


 語調の似た、やっぱり耳慣れない知らない言語。どこの国の言葉だろうと思う間もなく「ギャアアアッ」おじさんがつんざかれ、悲鳴を上げた。

 カランカランカラン、と金属とコンクリートのぶつかり合う不協和音が響く。崩れ落ちながらも悲鳴を上げ続けるおじさんの背後に、腰を屈めた男の人が立っていた。

 おじさんを挟んで、その人と目が合った。


「ア──」


 そのおじさんの首が飛び、悲鳴は途絶えた。

 血は、出なかった。代わりに、まるで焼ききれたように、おじさんの首の切り口は煙を上げていた。私達は茫然とへたり込んでいた。おじさんの首をねた男の人は、刀を軽く振って汚れを払い、鞘に納めた。

 色の上着。肩線や袖口そでぐちには白のライン。そして、鈍い光を放つ金色の肩章けんしょう


「──大丈夫?」


 その声はまるで、素で喋るとぶっきらぼうだけど小さい子相手だから優しく喋るか、なんて気遣いの透けて見える声だった。彼は振り向いて、私達を見下ろした。

 短くこざっぱりと切られた黒髪はくせ毛混じり、あまり整えられていない眉と一重の黒い目、少し鉤鼻ぎみの鼻と薄い唇。美形でもなければ優しそうでもなく、ただ普通だった。

 この人が、助けてくれた……。じっと見上げていると「茂之しげの、大丈夫か?」と別の男の人が駆け寄ってくる。


「大丈夫に決まってんじゃん、俺は。問題は……一人、殺されたこと」

「とりあえず死体を見せないようにしてあげて……。一応、綾崎あやさきくんが救護を呼んでくれたけど」

「呼んだのか?」

「当たり前だろ、地下通路なんて、一般市民がいないはずない」

「十中八九必要ないと思うけど。……ああ、悪いな、間宮まみや


 私達に最初に声をかけてくれた人は、茂之と呼ばれた。その隣に女の人と男の人が一人ずつ立つ。女の方はズボンの代わりに膝上のスカートにロングブーツだけど、みんな一目で軍服と分かる格好をしていた。そして、その服が持つ意味を知らない人なんて、この世界にいない。


 鬼討伐部隊──ユースティアに所属する、鬼討伐を専門とする戦闘部隊。


 その事実に気付いたのか、私の隣で硬直していた詩織しおりがわっと声を上げて泣き出した。女の人が慌てて屈み込んで、優しそうに微笑んで詩織の頭を撫で始める。


 でも、私は泣くことも喚くこともなく、ただ茂之と呼ばれた人を見上げていた。気付いた茂之という男の人が、もう一人の男の人から私に視線を戻す。

 何を喋るべきか、少し困っているように見えた。


「……もう、大丈夫だよ」


 でもややあってそう慰めてくれる。でもそれは、やっぱりぶっきらぼうさから優しさを絞り出したような態度だった。それでも私はゆっくり頷く。


「……怖かった?」

「……はい」

「怪我はない?」

「……ないです」

「そっか。もうすぐ救護が来るから、病院で一応検査は受けたほうがいいよ。きっと問題ないと、思うけどね」

「……はい。あの、ユースティアのお兄さん……」


 二十歳かそこらの、茂之と呼ばれた人に、私は尋ねた。


「ユースティアに入れば、お兄さんみたいになれるんですか?」


 その台詞に、茂之と呼ばれた人も、その隣の男の人も、私達の目線まで屈んでいた女の人までもが目を見開いた。まるで聞き間違えたかと言いたげなに。

 ただ、茂之と呼ばれた人だけが、一瞬で最初の無表情に戻る。


「……なれるよ。才能があればね」


 そのとき、茂之と呼ばれた人を見てからずっと感じていたのが、未知の扉を解放した時の高揚感だと知った。

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