お風呂で語らう二人


「はぁ……」


 本来の目的だった大浴場の湯船に浸かっていたタトリは、鬱屈した感情から重いため息をつく。

 分かっていたこととはいえ、先輩はタトリのことを妹みたいな後輩としか見ていない。

 その事実を改めて認識してどうしようもなく項垂れてしまっている。


 変に下心を向けてこない彼の隣はとても居心地が良い。

 けれど微塵も意識されていないのは腹立たしかった。

 矛盾だと自覚しているけれど、四年も片想いしてる身としてはやはりムカついてしまう。


 サクラちゃん達とタトリ……一体何が違うのだろうか。


 ゆっくりと自身の身体を見下ろす。

 視線の先にあるのはあまりにも平坦で凸の無い貧相な胸……否、胸と呼ぶのも烏滸がましいまな板だ。

 足も細く、彼女達のような異性の感心を引ける肉付きをしていない。


「……やっぱ胸なんすか?」


 なんてことだ、先輩は大きい方が好みだったのか。

 いやでも確か三人目の恋人である公爵令嬢はまだ十四歳だったはず。

 自分より二つ年下の少女でさえ彼女になれているのだからまだ希望はある……かもしれない。


 っていうかそもそも先輩は胸の大きさで付き合う女子を選ぶような人じゃないっす。

 ……でも大きい方が好きそうなのは否定できない。

 さっきの吸血と吸精の時だって、押し付けられてたのを堪能してたし。 

 全く、これだから男は!


 この場に居ない先輩に理不尽な怒りをぶつけていたら、後ろからガラリと扉が開くことが響く。

 誰だろうかと振り返ってみれば、黒髪を束ねてタオルで身体を隠しているサクラちゃんがいた。

 ギョッと驚いて硬直している間に彼女はタトリを見つけて笑みを浮かべる。


「フェアリンさん、こちらにいたんですね。丁度良かったです」

「ど、どうもっす……」


 逃げるように去ってしまったことを気にするどころか、むしろ良いタイミングだという彼女にタトリは気まずさから恐縮した返事しか出来なかった。

 話があると思考を読んで理解した以上、向こうが身体と髪を洗う間に逃げるなど申し訳なくなって動けない。


「えと……リリちゃんは一緒じゃないんすね?」

「リリスには伊鞘君の介抱をして貰っているんです。一人でも問題ありませんので、その間に汗を流そうと思いまして」


 先輩の介抱中と聞いてなるほどと腑に落ちた。

 あんな吸血と吸精を受けた後では、流石の先輩でも疲労困憊になるのは避けられない。


 少しでも緊張が紛れたらと話し掛けたものの、肝心の何を聞くつもりなのかは怖くて読む気が起きなかった。

 けれどタトリは思考を読むのとは別に、ある理由で彼女から視線を外せなかった。


 それは……サクラちゃんのスタイルの良さに目を奪われたからだ。


 スレンダーながら出るとこは出ている、ある意味で女性にとって理想的なスタイルである。


 単に身体を洗う仕草でさえ絵画かと見紛うほどの美麗さが漂う。

 人形のように整った美麗な顔立ちもあり、絶世の美女といっても過言ではない。

 こんな綺麗な人があんなエッロい吸血してたと思うと、なんだか無性にドキドキしてしまう。

 それでいて先輩の彼女だというのだから無敵という他ない。


 この場には居ないけどリリちゃんは流石はサキュバスというべきか、暴力的なまでにグラマラスな体型をしている。

 特大の胸はもちろん腰はほっそりしていてお尻もふっくらで……同性の自分から見てもエロいと思える。

 あそこまで凄まじく大きいと、嫉妬を通り越して拝みたくなってしまう。


 貧相な自分の身体と比較して落ち込んでいる内に、身体と髪を洗い終えたサクラちゃんがタトリの隣へ腰を下ろしてきた。

 ふぅと一息ついてから、改めてタトリの方へ顔を向ける。


「先程は巻き込んで申し訳ありませんでした」

「……別にいいっすよ。断らなかったタトリにもちょっとだけ非があるんで」

「そう言って頂けて何よりです。それでその──」

「──先輩のことなら大好きっす」

「え? あぁ……」


 機先を制して尋ねようとしたことへの答えを口にすると、サクラちゃんは目を丸くしてから思考を読まれたと納得した声を漏らす。

 ただ質問するより先に返答された以上に、タトリが肯定した方に驚きを隠せないみたいだ。

 まぁ先輩が居ないのにわざわざ否定する理由がないだけなんすけど。 

 ともあれ彼女の動揺に構わずタトリは視線を外してから続ける。


「今のタトリがあるのはあの人のおかげで、もし出会わなかったらとっくの昔に冒険者を辞めてたに違いないっす」

「自分の世界を変えて貰ったからですか?」

「はい。この気持ちを懐いた時から、先輩はタトリにとって世界の中心っす」

「そうですか……フェアリンさんの人間嫌いを加味すると、他の異性との交際は厳しそうですね」

「厳しいどころじゃなくて、先輩以外の男とか無理っす」

「だと思いました。私の場合は人間不信なのですが、伊鞘君以外の男性の血は受け付けそうにありません」

「人間不信……半吸血鬼ヴァンピールだとそうなるのも無理もないっすよね」

「ふふっ、フェアリンさんには隠し事なんて出来ませんね」


 異世界だと大騒ぎになって衛兵が呼ばれるレベルの暴露なのに、サクラちゃんはジョークがバレたような調子で笑う。

 そんな受け取り方が出来るくらい、彼女も先輩に救われたのだと思考を視るまでもなく察せられた。


 その気持ちが痛いほど分かる一方で、タトリと違って好きな人と想いを通わせた羨ましさを隠せない。


「昼休憩の時……いえ、それよりも前には分かっていたんですよね? 誰にも言わないで下さって助かりました」

「礼を言われるほどじゃないっすよ。人間嫌いのタトリにとっては半吸血鬼も大して変わんない。これで何か企んでたならともかく、一応先輩の恋人なので見逃してあげただけっす」

「それでもフェアリンさんが口を閉ざしてくれたおかげで、学習会の一日目は穏便に済みました。ですのでお礼を言わせて下さい」

「うっ……」


 屈託のない言葉に堪らず呻き声を漏らしてしまう。

 だって本当に感謝してるのが思考を読んでても分かるからだ。


 同時に文字通り彼女面な態度が羨ましくて、タトリは正面を向いたまま『ッハ』と鼻で笑って強がる。


「っていうかなんで今、タトリの気持ちを聞くんすか? 先輩は自分達の彼氏だから色目使うなって釘刺すならいつでも出来たっすよね?」

「……最後まで視ていないんですか?」

「うっかり視たくない思考まで視ないための自衛っすよ」


 ボーッとしてると無作為に他人の思考を読んでしまうので、目を逸らしたり別のことを考えたりして抑えるようにしている。

 タトリの存在は先輩の恋人であるサクラちゃんからみれば不安要素でしかない。

 そんな彼女の注意を無視して傷付けようものなら、先輩からの心象も悪くなってしまう。

 なんてことない、ただ好きな人に嫌われたくなくて視ない振りをしてるだけだ。


 湯船で温まる身体とは真逆に、心は冷えていく一方で苦しくて堪らない。


「四年も片想いしておいて先輩に告白一つも出来てないのだって、毎日お金を稼ぐのに必死だったあの人の足枷になりたくなかったからっすよ。奴隷になる前の生活がどれだけ悲惨なのか聞いてないんすか?」

「もちろん伺っています。伊鞘君も恋愛してる暇はなかったと零していました」

「ほら。だからあの人の環境が落ち着くまで、タトリはアピールに留めていたんすよ。……そしたらまさか奴隷にされるわ、三人も彼女作るわで盛大に出遅れたワケなんすけど」


 自分が一番、彼の隣に居るのだと悠長に構えていたらこのザマっす。

 なんだかんだ言って、結局は先輩の環境を言い訳にさっさと行動しなかったタトリが意気地無しなだけだ。 


 今になってアプローチしたところで、彼女がいる先輩にとっては迷惑でしかないことは分かっている。

 でも……それでもさっきサクラちゃんに言ったように、あの人以外なんて僅かでも考えられない。

 タトリが好きになるのは後にも先にも先輩ただ一人だけなのだ。

 せめて想うだけでも許して貰えないだろうか……なんて悲観的な考えを浮かべていたときだった。


「安心して下さい。伊鞘君のことを本気で想っているフェアリンさんであれば、無闇に関わるなどと言いません」

「へ?」


 思わぬ返答に驚いてサクラちゃんの方へ顔を向ける。

 目が合った彼女は包み込むような優しい表情を浮かべていた。


「仮にフェアリンさんが語ったような狭量な心持ちなら、そもそも複数で彼と付き合ってはいませんよ。伊鞘君のことですから、私達より後にも先にも好意を懐く女性が現れることくらい予想済みです。悪巧みをしている相手なら容赦しませんが、少なくともあなたは本気だと理解しています」

「そ、そんな都合のいいこと、あるわけないっす……」


 そこまで言い切られて戸惑うなという方が無理だろう。

 厄介なことに思考と発現に一切の齟齬が無い。

 彼女は本気でタトリのアプローチを許してくれているのだ。


 一瞬だけ胸に過った希望を手に取りそうになるけれども、首を振って顔を伏せながら手を下ろす。

 結局サクラちゃんが許したとしても、肝心の先輩が受け入れてくれないならタトリにチャンスは無いに等しい。


 そんな悲観的な言葉を零した一方、彼女は少しだけ背筋を正してから告げた。


「──伊鞘君以外の人を考えられないくらい好きなら、その気持ちだけは何があっても裏切ってはいけません」

「え?」

「告白に勇気が要ることも、断られたらと怖がるのも理解できます。ただ今のまま尻込みしていては何も解決しませんよ」

「えっと……」


 妙に説得力のある言葉にどう返せば良いのか分からなくて困惑してしまう。

 そんなタトリの表情を見ていたのか、サクラちゃんがクスっと笑みを零した。


「異世界で嫌われている半吸血鬼ヴァンピールだから。自分から告白するより彼からして欲しい。そんな風に逃げていた私に、リリスとお嬢様が投げ掛けてくれた言葉です」

「なんでそれをタトリに?」

「今のフェアリンさんが、伊鞘君と付き合う前の私と似ていると思ったからです」

「え?」


 呆れるでも話を切り上げるでもなく、サクラちゃんが口にしたのはさっきの問いに対する答えだった。

 加えてその理由が先輩に想いを告げられないタトリへの共感なのだから、驚くなという方が難しい。

 反射的に顔を向けたことで視た思考も、言葉との差異が無いことが否応なしに伝わってくる。

 安っぽい同情なんかじゃなくて、サクラちゃんは本心でタトリの想いを案じてくれているのだと。


 その優しさに戸惑っていると、彼女はゆっくりと天井を見上げながら続ける。


「リリスから伊鞘君を好きになったと聞いた時、私なんかより彼女の方が相応しいのではないかと劣等感に苛まれました。後になってお嬢様も彼が好きだと公言された際には、この想いは分不相応なのではと思い悩んで諦めようとしたこともあったんです」


 どちらかと言えば悲観的な話ながら、そう感じないのはサクラちゃんの表情に感謝の念が強く滲んでいるからだろう。

 わざわざ思考を読まなくても察しやすく、当時の彼女がどれだけ励まされたのかが言外に伝わってくる。


「背中を押して貰えたありがたさを知っているから、私もフェアリンさんの助けになりたい。だからあくまでこれは私の我が儘です」

「……」


 人差し指を立ててたおやかに笑うサクラちゃんが、どうしようもなく眩しく見える。


 あぁ、困った。

 打算も何もあったものじゃない、先輩と同じくらい透き通った気持ちでタトリを助けようとしてくれている。

 流石は先輩の彼女……とても人間不信を抱えているとは思えない純粋で、恋人になれたのも頷けるくらい優しい人だ。

 周りの人に支えられて、先輩への想いを実らせた彼女が羨ましくて堪らない。


 ──敵わないんじゃないか。


「っ!」


 一瞬だけ脳裏に過った敗北感を自覚した瞬間、気付けばタトリは浴槽から出て一目散に脱衣所へ逃げていた。 

 さっと身体だけ拭いて寝間着に袖を通し、髪を渇かさないまま宿屋の廊下を駆ける。


 あぁ、やってしまった。

 悔しさと劣等感に苛まれた胸の痛みで息がし辛い。

 差し伸べられた手を取った方が先輩への恋が叶うと分かっていたのに、どうしても一歩を踏み出せない自分の弱さがイヤになる。


 立ち上がった時、サクラちゃんがどんな表情をしていたのか見る余裕は無かった。

 ただ傷付けてしまったことだけは間違いない。

 あんなに優しくしてくれたのに、勝手に見下されてるように感じて拒絶したタトリのせいだ。


 罪悪感と自己嫌悪、嫉妬と羨望が心の中でグチャグチャになって張り裂けそう。

 もうどうしたらいいのか分からない。


 それでもたった一つだけハッキリと感じていることがあった。


 ──助けて、先輩。


 結局、タトリが掴みたい手はあの人だけなのだと。


 

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