もう足踏みする理由なんてないから


「その……服、大丈夫か? 俺の涙で濡れちゃったけど……」

「少しだけですし、洗濯すればいいだけですので気にしていませんよ」


 数分後、泣き止んだ俺は途轍もない羞恥心に襲われていた。

 いやだって……サクラの胸を借りた上に子供みたいにワンワン泣くなんて、情けないにも程があるだろ。

 恥ずかしさから明後日の方向を見つめているが、顔を見なくともサクラがクスクスと笑ってるのが分かってしまう。


「……笑うなよ」

「すみません。でも伊鞘君がようやく弱味を見せてくれたのだと思うと、どうにも嬉しくて」

「弱味ってあまり隠してた記憶無いんだけど」

「見られても構わない部分はそうですが、先程のように見せたがらない部分は初めてでしたよ?」

「……よく見てんだな」

「見ますよ、伊鞘君のことですから」

「っ」


 疑う余地を欠片も見せない真剣な言葉に、堪らず口を噤んでしまう。

 そうまでしてくれる理由は、もう一週間前に伝えられている。


 あの時、返事をするより先に両親の邪魔が入った。

 でも今は俺とサクラの二人だけだ。


 改めて状況を認識した途端、心臓がやかましく脈打ち始めた。

 ただ彼女と二人きりだから緊張しているワケじゃない。

 両親との再会を通して、ようやく自分の中で答えが定まったからだろう。


 俺なんかが人を好きになっていいのか迷っていた。

 仮に好意を明らかにしても、いつか両親みたいに裏切るんじゃないかって勝手に怖がっていた。

 だけどそんな気持ちはもうどこにも無い。 


 ──サクラが好きだ。


 いつから惹かれていたのかは分からない。

 でも同じ屋敷で働いて、吸血を通して何度もドキドキさせられたり、切っ掛けは幾つもあるかもしれないけど一番の確信はさっき両親に放った言葉だ。


 自覚したからこそ、今にも破裂しそうなくらい緊張で心臓が痛い。

 リリスもお嬢もサクラも、こんな痛みを堪えながら勇気を出したんだと思うと尊敬するばかりだ。

 けど憧れてばかりじゃいられない。

 隣に並ぶためにも、いい加減に俺の方から一歩踏み出すべきだ。


 その一心で、俺はサクラの手をそっと握る。


「っ、伊鞘君?」


 唐突に触れたせいで驚かせてしまったが、謝るのは後だと割り切りながら口を開く。


「なぁサクラ。聞いて欲しいことがあるんだ」

「は、はい。伊鞘君の話なら、聞きます」


 真剣な声音での前置きに、彼女は頬を赤らめながらも首肯する。

 ロクに主題も聞かずにそう言うのは危なっかしい。

 けれども人間不信がある以上、同じことを俺以外に言われても頷かない確信があった。


 とことん身内に甘いサクラに愛らしさを感じつつも、逸る鼓動を無視して絞り出すように……。



「──好きです。俺と付き合って下さい」

「っ!!」



 飾り気の無い、だけど精一杯の想いを込めた告白を口にする。


 告白を聞いた瞬間、サクラは紅の瞳を大きく見開いた。

 それから程なく顔色を真っ赤に染め上げる。

 手を通して彼女の体温が上がっていくのが分かるし、恐らくだが向こうも同様かもしれない。


「え、え!? い、伊鞘君から、えぇっ!?」

「お、驚き過ぎだろ……そりゃ、らしくないこと言った自覚はあるけどさ」

「そんなこと! ……あるかもしれません。伊鞘君からこ、告白されるなんて思ってみませんでしたから。嬉しくて驚いてしまって……」

「そ、そっか」


 目を逸らしては見つめたりと忙しないながらも返された言葉に、喜びを通り過ぎて困惑してしまう。


「い、伊鞘君!」

「お、おぅ!」


 ドキドキと尚もうるさい心臓の音を鼓膜に響かせながら次の言葉を探している内に、サクラから緊張した声音で呼び掛けられた。

 驚きつつ相槌を打つと、彼女は今にも泣きそうなくらいに瞳を潤わせる。


 それでも真珠みたいに綺麗な紅の瞳は逸らさず、伏せながらも俺を見据えたまま口を開いた。


「その……よ、よろしく、お願いします」

「っ!」


 了承の言葉に胸が大きく高鳴る。


 両想いである以上、断られないだろうとは思っていた。

 けれど告白を経て互いの気持ちを伝え合った今、事実以上の確かな実感となって心が沸き立つ。


 この瞬間を以て、俺とサクラは恋人になったのだと。


 ヤバい、嬉し過ぎて告白した時よりも心臓がバクバク鳴ってる。

 こんなに綺麗な女の子が好きになってくれた上に、恋人?

 嬉しくないなんて口が裂けても言えないし、思うことすら恥ずべきだろう。


 脳裏で思考を巡らせる中、サクラは照れくさそうに視線を右往左往し始めた。


「な、なんだか変な感じですね。やっと伊鞘君と恋人になれたはずなのに、嬉しさのあまりどう喜べばいいのか分かりません」

「そう、だな。でも、スイッチで切り替わるワケじゃないんだし、お、俺達のリズムで! ……進んでいけばいいんじゃないか?」

「は、はい……」

「……」

「……」


 あぁもどかしい。

 サクラと恋人になってからの会話がこれって良くないだろ。


 言いたいことは頭の中じゃいくらでも出て来るのに、いざ言葉にしようとすると喉に引っ掛かって胸が締め付けられてしまう。

 それ以上にサクラと隣にいると、無性に幸せが湧き上がってきてまるで落ち着かない。


 世の中のカップルがどうして恋人と居たがるのかよく分かった。

 これはクセになるというか、一種の麻薬みたいなモノに近い。

 ただ隣にいるだけでこんな満足感があるなんて、奴隷になる前には考えもしなかった。


 思考を巡らせて多少は気持ちが落ち着いたところで、不意にサクラと繋いでいる手が強く握られる。

 隣へ視線を向ければサクラが恥ずかしそうに、でも嬉しさを隠しきれない面持ちで俺に微笑んでいた。


「サクラ?」

「どうしました、伊鞘君?」

「いや、ジッと見てるから何か言いたいのかなって思って……」

「今は上手く言葉に出来そうに無いです。ただ、伊鞘君を見ていたいと思ったので、見ていました」

「っ」


 ねぇ俺の彼女可愛すぎない?

 これで普段はキリッとしてて仕事の出来るクールビューティーメイドなんだぞ?

 俺と二人きりの時は、それが影も形もないくらいにフニャッフニャになるとか悶えるなって方が無茶だろ。


 恋人の愛らしさに歯を噛み締めながら悶絶していると、スッとサクラが俺の肩に頭を寄せて来た。


「今度はなに?」

「くっつきたいのと……吸血がしたいな、と」

「っ、そう、か……」


 吸血を聞いて思わず体を揺らしてしまう。

 周期的には今日か明日になるし、イヤなワケじゃない。


 ただサクラと恋人になってからの吸血がこんなに早く来ると失念していたのだ。

 いやでもお嬢と違ってサクラは吸血が上手くない。

 だから快感の波が押し寄せて来ることもないだろう。


「……俺の血はサクラに吸って貰うためにあるんだから、遠慮するなって」

「はい……失礼します」


 そう自分に言い聞かせて、サクラの頭を撫でながら了解する。

 彼女はフニャリとたおやかな笑みを浮かべて、俺の服に手を掛けた。



 ──月はまだ、夜空で輝いているままだ。


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