『私』が死んで『緋月サクラ』が生まれた時
人間だった頃の私は地球で育ったどこにでもいる一般人でした。
ありふれた普通の人生は七歳になった年、旅行で異世界へ訪れた際に乗っていた馬車がモンスターに襲われたことで一変してしまう。
A級冒険者でないと対処出来ないとされる、ブラックグリズリーという熊のモンスターによって。
最初は御者が、次に両親が私を守ろうとして呆気なく殺されてしまった。
そうなれば次の獲物は残された私になり、目の前で起きた死に動揺して逃げる間も無く噛み付かれるのは当然です。
一度捕まった以上、幼い女児の膂力では抵抗すらままならないのは明白でした。
生きたまま身体を噛み千切られる苦痛から悲鳴を上げてしまう。
イヤだ、痛い、殺さないで、死にたくない、そう叫んでも止まってくれない。
初めて来た異世界、初めて目にしたモンスターから受ける暴力、初めて体感する死の恐怖、脳裏は走馬灯による現実逃避で埋め尽くされる。
段々と意識が遠退いて死に瀕する最中、突如としてモンスターの半身が消し飛んだ。
腕に食い込んでいた牙が脱力したことで、ブラックグリズリーがいとも容易く絶命したのだと悟りました。
けれども瀕死の重傷を負った私はもう助からない。
緩やかに訪れる死を迎えるように地に伏していると、見知らぬ女性の足がぼやけた視界に映りました。
「ねぇあなた、返事は出来る?」
「ぅ……」
投げ掛けられた問いに言葉を返そうにも、遠ざかる意識と抗えない脱力感から声を発することすら出来ませんでした。
それでも良かったのか、女性は話を続けます。
「時間が無いから簡潔に訊くわね。ワタクシにはあなたを救う手段が一つだけあるわ。ただし、それを実行するとあなたは人間ではなくなってしまうの。だから答えて頂戴……このまま人として死ぬか、人と違う存在になっても生きたいか、どちらがいいかしら?」
「──……」
生か死、人を辞めるか否か、そんな究極の二択。
今にも死にゆく少女に対してあまりにも酷な選択を突き付けたのです。
他の人が耳にすれば非情だと罵るでしょう。
けれど言葉を交わせるのは私と女性だけで、御者と両親は既に物言わぬ死体です。
そして死の恐怖に曝され、リスクがあっても生きられると訊かされればどう感じるのか。
その答えは単純明快。
「し、に……たく、な、ぃ……」
「分かったわ。では、今日からあなたはワタクシの娘よ」
血に塗れた喉を震わせて希った助けを女性は了承した。
そうして彼女──シルディニア様によって、私は緋月サクラという
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緋月の性はスカーレット公爵家の家名を和訳したモノで、サクラの名はシルディニア様が桜の花を気に入ったという由来で付けられました。
人間だった頃の姓名はもう一生名乗られることはないでしょう。
ちなみにシルディニア様が魔王という訳ではありません。
人間を半吸血鬼に変えることは高位の吸血鬼であれば扱える能力です。
ただ魔王の支配体制以降から安易に行使しないよう、吸血鬼社会では暗黙の了解とされています……それが人命救助のためであっても。
そもそも吸血鬼は血統を重視する傾向が強く、元人間である半吸血鬼は純種ではないという理由で蔑みの対象になるからです。
加えて魔王の使徒による侵略の結果、一族の面汚しとしてより忌み嫌われているのが現実です。
これらを踏まえると、如何にスカーレット公爵家が異端なのか浮き彫りになりますが、掘り下げるのは後回しにしましょう。
話を戻しますよ。
命の恩人であるシルディニア様の希望通り、私はスカーレット家の養子となったのです。
目が覚めた時には既に本邸の一室で、早々に頭は困惑で一杯でした。
本当に生き長らえたことに驚きましたし、かつて黒髪と黒目から銀髪と紅目に変わっていたのを鏡で見て驚いたのも鮮明に覚えています。
この頃はまだ助けてくれた恩人が公爵夫人と知っても、イマイチ理解出来ていませんでしたね。
半吸血鬼となった以上、食事以外にも吸血が必要になると知った時も戸惑いました。
当たり前ですが血を飲む習慣なんてありませんでしたし、なにより元人間だからこそ他人から吸血することに抵抗感があったからです。
幸いにも気遣って下さった公爵様の計らいで、吸血の際は保存された輸血パックから細々と吸い出していました。
味に関しては……あまり褒められたモノではありません。
分かりやすく例えるなら、水分が抜けてパサパサになった味の無いパンといったところでしょうか。
初めの頃は一パック分を飲み切るまで時間が掛かっていましたね。
そしてこれは当然のことですが、半吸血鬼となった私は屋敷の中で過ごすことを義務付けられました。
ヴェルゼルド王を初めとした方々の尽力により、半吸血鬼に対する迫害意識は減少傾向にありますが、根絶には至っていないのが現状です。
特に吸血鬼や他の長命族にとっては積み重なって根付いた恐怖は、取り除こうにも深く潜り込み過ぎていますから仕方ありません。
そういった事情から私を守るため、外出を禁じられるのは当然の成り行きです。
ただ、この頃は自分が至った存在がどういったモノかまるで自覚していませんでしたが。
色々と衝撃を受けた事柄は枚挙に暇がありませんが、特に忘れられない出来事が一つだけありました。
それは……。
「はじめまして、エリナレーゼ・ルナ・スカーレットです」
「あ、緋月サクラ、です……」
四歳になられたばかりのエリナお嬢様と顔を合わせた時です。
絵本で見たような貴族のお嬢様。
明らかに自分とは違う世界を生きてきた存在を前に、緊張するなどというのは無茶な話です。
当時の私は年下の女の子から令嬢らしい挨拶をされ、どう返せば良いのか分からず戸惑ってしまいました。
咄嗟に名乗れただけでも上出来だった方でしょう。
そんな私達の様子を眺めていたシルディニア様は微笑みながらソッと身を屈める。
「楽にして頂戴。何せあなた達は姉妹になるんだから」
「し、姉妹?」
「この人があたしのお姉さまになるんですか?」
「えぇそうよ」
お姫様みたいに綺麗な子の姉になる。
養子になった以上、当然の成り行きではありますが、当時の私には衝撃的でした。
「うれしい! あのね、お姉ちゃんってよんでいい?」
「え、あ、は、はい……」
「やった、ふふ!」
愕然とする私とは対照的に、エリナお嬢様はとても喜ばれました。
両手を取りながら発せられた親しげな呼び掛けに、動揺しつつも頷く。
するとエリナお嬢様は満月のような笑みを浮かべる。
「お姉ちゃん! あたしがやしきをあんないしてあげるわ!」
「ま、待って、急に引っ張らないで……!」
幼い頃のエリナお嬢様は今よりずっとお転婆で、数え切れない程に振り回されたモノです。
それでも家族を亡くしたばかりの私にとって、スカーレット公爵家での生活はとても暖かな日々となりました。
シルディニア様と公爵様から、実の両親と変わらない愛情を注いで頂いたことにはいくら感謝しても足りません。
エリナお嬢様には特に懐かれていて、互いを姉妹として大切に想い合っていました。
けれども私は忘れてしまっていたんです。
平穏な日常はとても簡単に一変してしまうということを。
その一端となった悲劇を起こしたのは他でも無い、私自身でした。
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