第3話 気合いが効かなきゃ刃物

 部屋の中に、律香が容赦なく撒いたラベンダーの香りが立ちこめる。花の甘さの中に爽やかさが混じった香りは、先程までの生ゴミと酒の匂いとは真逆だ。

 芳香が漂い始めるにつれて、幸村にも空気が軽くなったことがはっきりとわかった。川村はようやく人心地付いたような表情を浮かべている。


「大分薄まりましたけど……そもそも集合体なんですよね、あれ。配水管の中の絡まりまくった髪の毛みたいなもので、除菌スプレーくらいではどうにもできない」 


 律香が見ているのは、ミニキッチンのある部屋の隅の天井だった。


「あそこで間違いないですね?」

「は、はい。夜中になるとあの辺から罵声が聞こえてきて、俺が見てみると両手で抱えるくらいの大きさの、モザイクがガチャガチャ掛かった感じのものが浮いていて」

「具体的にどういうことを言われるんですか?」

「俺自身にはこの部屋の近辺で恨みを買った覚えはないんですが、話を聞けとか、無視するのは図太いとか……。最初は『起きろこのクズ!』って怒鳴りつけられて、誰のことかわからない嫌味をネチネチと言われるようになって。反論したこともあるんですが、物凄い勢いで倍くらい大きな声で怒られるので、最近は布団を被ってやり過ごしているんです」


 喋りながらも川村の肩が落ちていく。友人を不憫に思った幸村は、川村を庇うように律香に向かって説明しようとした。

 

「先生、川村は性格も優しいですし、恨みを買うようなタイプじゃないんです。むしろ、怒られたらその分へこむ――」


 言葉の途中で律香が手を振って眉を吊り上げた。幸村の言葉ですら律香には気に食わなかったらしい。

 

「それ! それ駄目です! 霊に怒られてへこむ? 心当たりがないなら胸を張って跳ね除けてください! 霊の核はこれだけ絡まってるとわからないですけども、川村さんの恐怖とか、自己嫌悪を糧にしてるんですよ。いいですか、これから正しい霊への対処法を見せます」


 毅然とした態度で和服の女性はバッグを開け、中から妙に可愛らしい筆箱を取りだした。

 そして、一本のカッターを手にする。


「おい、貴様らふざけんなよ。人様の部屋に居座って迷惑を掛けるたぁ何事だ? 居座るなら家賃くらい払えや!」


 普段は冷淡でも丁寧な言葉で話す律香とは思えない、ドスの利いた罵声が飛び出す。

 幸村と川村はただ仰天し、その場に立ち尽くしていた。


「あっ……あれだ」

「川村?」

「西田には見えないか? 先生が睨んでる先、俺が毎晩見るモザイクが……薄いけども出てきてる」


 川村の言葉で必死に目を凝らしても、幸村以外のふたりの視線が向いている先はただの天井でしかなかった。

 怯えているのか、友人が幸村の腕を掴む。

 そして律香はジジジと音を立て、カッターの刃を出していた。


「はぁ? この部屋の住民に言い聞かせてる? ふざけたこと言ってんじゃねえよ! てめぇらの言ってるのはただの愚痴だって気付やぁ! 関係ない人にうだうだ文句言ってウザいのは貴様らじゃあ! オラァ! 死にさらせー!」


 近所に聞かれたら通報されそうな罵声と共に、振りかぶったカッターを全力で律香が投げつけた。

 カッターは一直線に空を切り裂いて飛び、天井に刺さって震える。あまりにも見事な投擲だった。


「ああ……」


 川村がほっと息をついた途端、何事もありませんでしたというような真顔で律香が振り返った。


「終わりましたよ」


 その涼しげな声に、思わず幸村は脱力して座り込んだ。

 何も見えないし、感じない。理解不能にも程があった。

  

「……霊に向かって『死にさらせ』ってどういうことなんです? 死んでるんでしょう、元々」

「だから、気合いなんですよ。必ず殺すと書いて必殺の気合い。弱気でいると霊には付け込まれるんです。死んでる相手でももう一度ぶっ殺すという気合いで臨まないと」


 優雅な動作で筆箱を閉めながら、律香が先程とはうって変わった静かな声で話し始める。

 

「川村さん、よく聞いてください。常に強気でいるような人には霊は近づきにくいです。この部屋みたいに日陰で、カーテンも閉め切っててろくに換気もせず、しかも散らかし放題で家主は弱気。最悪ですよ、『幽霊さんいらっしゃい』状態です」

「これからは、できるだけ掃除もまめにするようにします。それに換気も」

「そうしてください。それと、またあの手合いが出たら、『ぶっ殺すぞ!』って包丁でもぶん投げてやってください。幽霊は金気かなけに弱いです。気合いが籠もってれば尚更。……ああ、そうだ。すみません、私のカッターが刺さってしまったんですが、脚立か何かありますか?」


 この期に及んで自らが投げて天井に刺さったカッターを気にする律香に、幸村は思わず乾いた笑いをあげた。もう、笑うことしかできなかった。

 

「生憎脚立がなくて……でもなんとかなると思います。そこのテーブルの上で西田が踏み台になってくれれば」

「俺が踏み台……」


 げっそりと幸村は返したが、新しいカッターを律香に買っても、さすがにこの部屋の天井にカッターを刺さったままにはしておけない。

 しかたなくローテーブルの上に四つん這いになった幸村を踏み台にして、川村が天井からカッターを引き抜いた。


「ありがとうございました。おかげさまで安心できました。俺にもわかります。あれがいなくなったことが。……そういえば、電話で伺った通りにアルミホイルと塩で簡易結界を作りましたけども、あれでは追い出すことができなかったんでしょうか」

「ええ、あれはごくごく簡易的なものですから。むしろ、この部屋にいるものを閉じ込めるためにしていただきました。その後の除菌スプレーで弱らせることはできるし、あれに引かれて集まっていた小物は実際散ってますよ」

「と、閉じ込めるため……」


 友人の頬が引き攣っているのを幸村は間近で見ていた。

 

「何故、閉じ込める必要が」

「確実に仕留めるためですが、それ以外に理由が?」

 

 律香が合理主義だという事は知っていたが、ここまでとは思っていなかった。

 幸村は霊能者である担当作家のことを考えるのをやめ、馬焼き肉のことだけを考えることにした。



 翌週の土曜、3人は西新宿の馬肉専門店で焼き網を囲んでいた。雑居ビルの3階にある店はこのご時世でも既に客がいる。

 僅か1週間の間に川村の顔色は元の通りに戻り、幸村のよく知る明るく穏やかな表情を取り戻している。食欲も戻ったようで、しきりに今日の馬焼き肉食べ放題を楽しみにしているメッセージが来ていた。


「馬バラ10人前、馬肉寿司9人前、それと赤身刺し9人前お願いします。飲み物はメガハイボール」

「先生一気に頼みすぎでは!? あ、俺は飲み物はプレモルで」

「俺もプレモルで。いいんじゃないかな、置くところさえあれば」


 にこにこと律香の肩を持つ川村は、すっかり律香に気を許したようだった。食べ放題に追加オーダーできるレバ刺し食べ放題も付けている。これはレバ刺しを食べたことのない幸村の熱烈なリクエストだった。


「あっという間になくなりますよ。特に馬バラなんて、すぐ火も通るし半生でも行けるくらいですしね。馬肉寿司は1人前1巻だから、9人前くらい頼まないとこの人数じゃ食べた実感出ませんし。その次は馬ボール10人前とレバ刺しとユッケいきましょう。レバ刺し美味しいですよ。今時生肉が食べられるのは馬肉くらいですし、なんだろう、白子のようなまったりとした濃厚感があります」


 運ばれてきた肉を早速網に乗せ、3人はそれぞれの酒を持って乾杯をした。

 冷たい炭酸と爽やかな苦味が喉を落ちていく感覚に、おもわず「くーっ」と声が出そうになる。

 出した途端「西田さんはおっさんですね。年は変わらないのに」と律香に言われることがわかりきっているので堪えたが。


「馬うまーい! この醤油がまたいい! 今日も買って帰ろう!」


 がさっと焼いた肉を箸でさらい、特製醤油につけて頬張った律香はハイボールを喉に流し込むと珍しく表情豊かに叫ぶ。

 どうも律香はこの店の常連らしいと幸村はその言葉で気付いた。

 

「馬焼き肉初めてですけど、いい店じゃないですか。しかも安いし。馬刺しって初めて食べたなあ」


 どんどん網の上に肉を並べていくのは川村だ。その合間に馬刺しを口に運ぶことも忘れない。


「念のため聞きますが、その後どうですか?」


 馬肉をあっという間に3人前平らげると大ジョッキのハイボールを1/3程空け、律香が川村に尋ねる。川村は裏のない笑顔で律香に答えた。


「ええ、おかげさまで何事もありません。先生には本当にお世話になりました。なんとお礼を言ったらいいか」

「いえ、お礼は言っていただきましたし、こうして焼き肉も奢っていただいてるので私はそれで十分ですよ。実際、カッター投げてほとんど終わりでしたしね」


 うっすらと律香が微笑む。


 ――焼き肉にむしろ釣られたくせに。


 その地雷ワードを幸村は飲み込んだ。そして、馬焼き肉と馬刺しを堪能することに気持ちを切り替えたのだった。

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