第2話 汚れと悪臭は霊の好物! 滅すべし!

 川村の部屋は、律香と幸村が打ち合わせをしていた喫茶店からは電車で乗り換えなしの場所にあった。

 ぎりぎり23区内という立地の、駅徒歩15分の少し古びた8階建てのマンション。その最上階に川村は住んでいる。


 元は赤かったであろうくすみきったカーペットが敷かれたエレベータに乗り込んで、律香は早速顔を顰めた。


「なんですかこのマンション。エレベーターすら臭いんですけど」

「嫌ですね、臭い密閉空間」


 幸村も僅かに眉を寄せた。煙草臭さ、生ゴミの匂い、そういったものが入り交じった匂いが籠もっている。


「しかもまるきり日陰。後ろと左右は別の建物がぴっちりで、前は道路を挟んで高層マンション。これじゃあ……」

「やっぱり霊が溜まるんですか?」

「いえ、洗濯物が乾かないじゃないですか。少なくとも私だったら絶対選ばない物件です」


 相変わらず真顔の律香を、幸村はまじまじと見つめた。

 どこまでが本気で、どこからが冗談か全く判断が付かない。全部本気と取るのが一番無難そうであった。


 幸村がインターフォンを押すと、応答無しですぐにドアが開かれた。現れたのは土気色の顔をした青年だ。


「川村、大丈夫か? 一応差し入れ持ってきたけど」

「あ、ああ。昼間は出ないから、少しだけ寝てたんだ。――どうぞ、散らかってますが」


 弱々しい声で告げて川村は律香と幸村を部屋の中に招く。

 

 玄関から一歩入ったところでふたりは足を止めた。

 ワンルームの室内に続く短い廊下はビールの空き缶が並び、時間が経ったビールの饐えた匂いが漂っている。そればかりではなく、生ゴミと覚しき匂いも混じって、思わず鼻を摘まみたくなる惨状だった。


「減点100! 散らかりすぎです! 大変失礼ですが完全に汚部屋ですよ? 物凄くマイナスポイントです!」


 キリリと律香の眉が吊り上がる。その剣幕に川村は元より幸村までが一歩退いた。


「すみません! 仕事が忙しくて帰ったら寝るので精一杯になって……それで、変な現象が起き始めてからは夜もあまり眠れずに……」

「悪循環じゃないですか。確かにこの部屋だったら霊が溜まっても仕方ないです。まず掃除をしましょう。汚れと悪臭は霊の好物! こんなに澱みきった場所は格好の霊の住処ですよ」


 まるで霊をゴキブリの如くに扱う律香の調子に、今まで除霊の現場に居合わせたことのない幸村は頬を引き攣らせた。

 拳で殴ればいいとか、汚れと悪臭は霊の好物とか、ノー感の幸村には全く想像も付かなかった言葉が目の前の涼やかな佇まいの女性からポンポンと出てくる。

 

「あ、じゃあ先生はちょっと外でお茶でもしてきてください。俺と川村で全速で片付けますから!」


 友人の汚部屋の片付けの手伝いを女性にさせる勇気は、さすがに幸村にもなかった。きっと見られたくないものがたくさんあるに違いないと容易に予想できるのだ。

 例えば、丸まったガビガビのティッシュとか。


「しかし――本当に先生の言う通り凄い散らかり具合だな。前はこんなじゃなかったのに」

「悪い……」


 無精髭を生やした川村は幸村の言葉に項垂れた。見るからにやつれた友人の肩を、幸村は労るように軽く叩く。


「それだけ忙しかったんだろ。ま、ふたりでやればきっとすぐ終わるよ。見た感じほとんどごみっぽいし、元々お前きちんと整理するタイプだったしさ」

「それでは私は駅前のビルに買い物に行きますので、掃除が終わったら連絡してください」

「わかりました、お願いします!」


 あっさりと律香が部屋から出て行く。それを見送って、幸村と川村は必死に空き缶を洗っては潰し、ごみを片っ端からビニール袋に詰める作業へと移っていった。



 幸運だったのは、マンションのゴミ捨て場がいつでもゴミ出し可能だったことだ。

 紙くずなどの燃えるごみ、弁当の空き容器などのプラスチックごみ、そして主にビール缶のビン・カンと、10袋ほどのごみを捨てると部屋はかなりすっきりとした。


 部屋の隅に埋もれていて久しぶりに発掘された掃除機を使って川村が掃除をしている最中、ミニキッチンを片付けながら幸村はふと昔を思い出していた。


「そういや、大学の卒業式の前にこの部屋に引っ越したときも、こうやってふたりで片付けしたよな」

「そうだったな……。ありがたいよ、顔の広いお前みたいな友達がいてくれて。俺は霊能者のつてなんて無いし、もう引っ越そうかと思ってたくらいなんだ。……でも、引っ越した先にもアレが出たらどうしようかと思うと踏み切れなくて」

「先生がどうにかしてくれると思うから安心しろよ。あの人、割りとその筋では有名らしいからさ。野生の霊能者って」

「編集者って凄いな。そんな人脈もあるなんて」

「いや、あの人異世界物の極甘恋愛小説に定評のある作家だから。あんなクールで、書くものは凄まじく乙女心満載なんだよ。――世の中は不思議に満ちてるよな。まあ、作家って変な人が多いのは事実だけど」

「俺、多分編集者無理だわ。お前と同じに文芸学科出たけど」


 川村が微かに笑う。少し気力を取り戻したような友人の様子に、幸村は安堵の息を吐いた。

 それから掃除が終わるまで2時間ほど掛かった。

 カーテンを開けて空気の入れ換えのために窓を開け放っていたせいか、大分空気が軽くなっている。

 そして幸村が律香に連絡をすると、彼女は10分ほどで戻ってきた。


「買ってきました」


 律香がバッグから茶色い遮光瓶を取り出す。

 緑色のラベルには英語らしい言葉が書かれていたが、律香の指に遮られて幸村からは読むことができない。


「先生、それは?」

「ラベンダーのエッセンシャルオイルです。殺菌効果がとても強いことで有名です。なので霊にも効きます」

「霊は菌と一緒なんですか!?」


 部屋の隅からポタポタとラベンダーを垂らし始めている律香に向かって、思わず幸村は叫んだ。

 その声に手を止めて律香が振り向く。相変わらずの真顔だった。


「そうですよ。霊なんて菌やカビと一緒です。ジメジメして、暗くて、汚れてるところが好きなんですから」 

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