幽霊はエロが嫌い

第4話 ある同人作家の業

 7月のある日、律香は普段のなんちゃって書生ルックではなくきっちりと着物を着こなして街を歩いていた。日傘に籠バッグを持った姿は見るからに涼しげだ。


 今日の目的は、ご贔屓ゲームを原作とした新作歌舞伎を観ることである。そのために着物警察に怒られないような配慮もいろいろした。席が取れるかどうかわからなかったのでチケットはひとり分しか応募しておらず、同行者がいないのが残念だ。


 新橋演舞場に会場より大分早くに付き、「借りた方がいい」とSNSで評判の音声ガイドを借りるために列に並ぶ。その時、くいくいと後ろから袖を引かれ、振り返ると見知った顔があった。 


「ぶんぶんちゃん!」

先生」


 あまり外で「ぶんぶん」とか「新生姜」とか呼んで欲しくはないのだが、そっちの名前でしか知り合いではない人も多い。仕方ないので、その辺は大分諦めている。


「良かったー、知ってる人がいたー。公演のあと空いてる? お茶しない?」


 干し野は少し前まで律香と同じジャンルで同人誌を出していた知人だ。人懐こくて誰とでもすぐに仲良くなれるタイプの人間である。

 イベントの時には体力勝負になるからとTシャツにジーパンが定番の彼女だが、今日は緑の縦縞の紗の着物を涼しげに着こなし、髪はまとめて赤い珊瑚のかんざしで留めているのが粋だ。律香の同人界隈の知人は和服を着る人間が多い。

 公演後にはやはり一緒に観た人と感想を話し合いたい。それが一般的な感覚だ。律香は二つ返事で了承し、終演後に同じ場所で待ち合わせをすることになった。




「最近引っ越したんだけど、事故物件なのよー。それで、幽霊が出たんだけど」

「待ってください、いきなりどういう話ですか」

「引っ越した先が事故物件なの。格安だったからそこにしたんだけど」

「ちょっと、ちょっと待ってください、どこでお茶しようか悩んでたんですけど、もう行く場所がカラオケしか無くなりました」


 歌舞伎の感想をいろいろと話し合えると思っていたのだが、待ち合わせ場所に現れた干し野の第一声がいきなり不穏だった。あまり普通の飲食店で霊がどうこうという話はしにくいので、防音の効いたカラオケに行くしかない。


「カラオケ久しぶりー! ご飯も食べられるしいいんじゃない?」


 カラオケと聞いて干し野は嬉しそうだ。コロナ禍のせいで同人イベント後のアフターと呼ばれる食事会はめっきり減り、カラオケに行って延々2.5次元ミュージカルの歌を歌うこともなくなっている。


「歌いに行くんじゃないですよ? 干し野先生そこ大丈夫ですか?」

「うん、新居の話を聞いてくれるんでしょ? ぶんぶんちゃん優しいー」


 律香は頭痛を憶えて頭を押さえた。心霊関係の悩みを持ち込まれるのは慣れているが、とりあえず今干し野は切羽詰まった状態ではないらしい。いや、彼女は元々強メンタルだしコミュ強で陽キャだ。幽霊の嫌うタイプの人間なのだ。


「事故物件に自分から住んだんですよね?」

「そう、心理的物件ってやつね。私の前に住んでた人が自殺しちゃったんだって。『大島てる』で調べちゃったよ」


 ――つまり彼女は、幽霊がいるところに自ら踏み込んでいったわけだ。普段幽霊に出くわさないタイプの人間だから、そうでもない限り幽霊との出会いはなかっただろう。


 新橋駅の近くまで行き、チェーンのカラオケ店に入る。リモコンからドリンクとフードを注文すると、当たり前のように干し野が曲も入れていた。


「干し野先生、今夏コミの原稿もしてるんですよね!?」


 事故物件の話を聞き、食事もしてカラオケもして――そんな時間は無いと言外に責めると、干し野はかけるだけ! と食い下がった。

 辛気くさい話をするのに、せめて明るい曲をかけないでどうするのかというのが彼女の言い分だ。それは確かに一理ある。


 注文したフードとドリンクが来てから、干し野はエビピラフを頬張りながら話し始めた。リスが頬袋にクルミを詰めたようになっていて、やはり困っているようには見えない。


「もうちょっと広いところに引っ越したいなーって思ってしばらく前から物件探ししてたんだけど、ワンルームで30平米超のすっごいいいところが出てて、それが事故物件で格安になってたから即決めたの」

「なんでそこで躊躇がないんですか!? 普通借りる人が嫌がるから値段が下がってるんですよ!」

「だって幽霊見たことないし、ぶんぶんちゃんにも前に『霊に嫌われるタイプ』って言われてたから大丈夫だと思って」

「だからって飛び込まないでください!」


 普段はクールなはずの律香がペースを乱される。干し野はマイペースで怖い物がないタイプだから、幽霊もさぞやりにくかろう。


「それでね、引っ越してその晩から、部屋の入り口辺りにおじさんが立ってるのが見えるようになったのよ-」


 パクパクとピラフを食べながら干し野がしゃべる。この話題で食事が出来る人間は、律香の知り合いでもそれほど多くはない。


「出てるじゃないですか、思いっきり! それで、干し野先生は大丈夫なんですか? 体調崩したりとか困ってないです?」

「ううん、大丈夫。それに、その幽霊もういなくなっちゃったから」

「……は?」


 干し野は確かに霊的に強いタイプだ。力の弱い霊だとまず近づくことすらしないだろう。しかし、本人に自覚が全くなく、知識も無いので除霊をしたとも思えない。


「何があったか聞かせてもらえます?」

「当然ー。だってその話がしたくてご飯食べに来たんだし」

「……そうでしたね」


 そして干し野が話した一部始終は、律香が今まで聞いた心霊関係の話の中でもある意味一番酷い話だった……。



 干し野は専業の同人作家である。儲けを出すのは良くないと言われているこの業界の中で、本体よりも高いノベルティを付けて帳尻合わせをするにも無理が出て来て、とうとう仕事を辞めて漫画を描くことを本業にしてしまった。

 元々描くのも早いし、2ヶ月に一度程度のイベント参加の度に100ページを超える同人誌を出すことでも有名であった。

 そして、恐ろしいことに壁サークルなのだ。頼まれて一度律香も売り子をしたことがあるが、100ページだろうが120ページだろうが「めんどくさいから1冊1000円」というどんぶり勘定で値段が決まっている。

 計算は楽だが千円札が乱れ飛び、足下の段ボール箱に札が適当に投げ入れられているのを見ていると感覚がおかしくなりそうだった。


 そんな干し野が引っ越しをした理由は「資料をもっと置けるようになりたいから」である。当然広い部屋が良かった。

 その事故物件は、干し野の希望に余りにも合致していたのだ。


「で、イベントもあるし、引っ越したらとりあえずPC使えるようにして原稿しないといけないじゃない? だから、サブマシンにテレビ繋いで、無修正サイトのゲイビデオをエンドレスで流しながら男同士の組んずほぐれつを描きつつ、せっかく筋まで描き込んだ性器に海苔を貼ってたんだけどさ……」

「干し野先生が何を描いてるかは知ってるけど、改めて聞くとなんか酷いですね……」


 海苔を貼る、とは男性器に対する修正作業である。黒ベタで、隠すべきとされている部分を何カ所か隠すのだ。


「冷静になると酷いのは認める。でも原稿中は頭がおかしくなってるから全く気にならない。で、おじさんいるなー、こっち見てるなーと思って振り返ってみたら、物凄く嫌そうな顔しててね……なんで幽霊がこんなに嫌そうな顔してるんだろうって思ったら、おじさんの立ってる部屋の入り口から、ゲイビ流してるテレビがちょうど真っ正面でさ……」

「それは……嫌でしょうね」

「うん、幽霊とはいえ男性に同意なくゲイビデオを見せつけてしまった……申し訳ないことをしたと思ってる」


 干し野は神妙な顔でタピオカミルクティーを飲み、新しい曲を入れた。


「だから、次の日から1日おきに、私の参考にはならないんだけどテレビに出力するのを男女のエロビにしたわけ」

「気遣いの方向がおかしい!!」

「やっぱりそうなのかな? おじさん、嫌そうな顔が段々酷くなっていって、そのうち消えちゃったんだよねー。やっぱりこれって私のせいなのかな? ぶんぶんちゃんしか相談出来そうな相手がいなくて」

「つまり」


 律香は注文したピザのチーズが冷めて固まるのを見ながら、脳内を整理した。

 幽霊は出た。だが干し野に対してなんらかの害を及ぼした様子はない。むしろ幽霊が干し野によって酷い目に遭っている。そして、干し野はそれに対して申し訳なく思っている――。


「干し野先生が霊によって困ったわけではなく、一方的に霊を困らせたと。結果霊が消えることになったのではないかと気にしているという事ですね?」

「そう!」

「それはもう100%干し野先生のせいですけど、消えて正解ですよ、その霊は。むしろこっち側に縛り付けられていたのを解放してあげたんだと思っていいです」

「そんなもんなの?」

「そんなもんです。気にしなくていい……と言いたいところですが、私が聞いた話の中でもおそらくナンバーワンの酷さですね。幽霊は性的な事が嫌いなんですよ。たまーにいやらしいことをしてくるのもいますけど」

「じゃあ、あのおじさんがどっかで幸せに生まれ変わることを祈ろう。……と言うわけで、何歌おうかな」

「切り替えが早い! 私今の話を聞きながらピザ食べるのちょっと無理でしたよ? 環境を想像するだけで胸焼けしそうでした」

「あははー、ごめーん」


 干し野は悪びれる事無く、何事もなかったように歌い出し、律香は冷めたピザをコーラで流し込むむなしい作業を干し野の歌を聴きつつこなした。


 ぶんぶん新生姜こと新生律香がこの夏遭遇した、一番酷い幽霊案件であった。


***


「……という事があったんですよ」

「それは酷い」


 律香の担当編集者である西田幸村は、律香から話を聞いて自分が泣きそうになった。いくら自殺して残ってしまった自分がいけないとはいえ、自分好みでもないゲイビデオを強制的に見せられる幽霊に深く同情した。自分が幽霊でもそんなことされたら消える。そう強く確信した。


 だから、仕方が無いのだ。「新しく借りた部屋に幽霊が出る」と友人から相談を受けたときに、律香から聞いた話を思い出して「エロいビデオを流してみたらどうかな」とアドバイスをしてしまったことについては。


 ――そこから、第二の事件が始まった。

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