第3話
――時は望が彼の家を出たところまで遡る。
森中聡は3畳半の部屋で一人、体育座りをしていた。室内には眼鏡型の最新ゲーム機種、オーバーワールドが無残にも破壊された状態で転がり、電源がついたままのパソコンは青い光で室内を不気味に照らしている。パソコン上には文書作成用アプリが開かれ、適当に打たれた文字が羅列していた。
不意に、彼の部屋の扉が二度ノックされる。だが、彼がそれに反応し、扉を開けることはなかった。いや、開ける気力も、筋力も、彼にはなかった。しばらくして、彼の部屋の外にトレイが置かれ遠ざかる足音が静寂に満ちた青い部屋に響き渡る。
「瞬......」
深海のように暗く沈んだ彼の瞳に怯えと後悔の色が浮かび上がった。
生まれた怯えと後悔は彼の胸を押さえつけ、痙攣させる。震える手足では何をすることもできず、彼はそのまま床へと倒れこんだ。
『あの日』を境に変わってしまった彼の生活は、改善されるどころか悪化の一途をたどるのみ。何度も受けに行ったカウンセリングでさえ、余計に彼の心を圧迫するだけに過ぎなかった。
心が罪悪感で満たされた彼は、空虚な日々を延々と過ごし、高校三年生の『あの日』からの三年間、一歩も部屋から出ないようになっていた。
何もできなかった無力感と大切なものを失った喪失感、高校を卒業したというのにも関わらず親の脛を齧り、怠惰な日々を過ごしている申し訳なさ、二つの壁に挟まれ、彼は動こうにも動けなかった。
「俺、なんで生きてるんだろ」
無気力のまま、彼は虚空に向けて呟いた。その直後、彼の脳に快楽を伴う激痛が奔り、森中聡は白目をむいて泡を吐く。
二階で大きな物音がした。それに気づいた森中洋平は読んでいた新聞紙を床に投げ捨て、焦った表情で階段を上る。何年も会うことのできなかった我が子に何かがあったのではと心配する親としての感情が、普段は冷静な彼をこうも焦らせた。
「聡、聡、大丈夫か!?」
ドアを数回ノックするも、中から反応はない。そのことが洋平の焦りに拍車をかけた。入るぞ、と軽い断りをいれ、彼はドアを開けた。直後に目に入ってくるのは何ヶ月と電源が入ったままのパソコンの画面。乱暴に引き裂かれた紙屑で埋め尽くされた机上。そして、参考書や小説で埋め尽くされた本棚にもたれかかる我が子の姿。
洋平はすぐさまスマホを取り出し、119の番号を入力した。スマホを耳に当て、不安げな視線を送る洋平は息子の目が紅く染まっていることに気づいた。
洋平は2050年代に起きた吸血鬼騒動をその身をもって体験していた。『吸血鬼』という単語も一瞬のうちに彼の脳に浮上した。信じたくないと彼は思った。だが視界に入る息子の瞳は否応なしに現実を突きつけてくる。
その現実に血が滲むほど拳を強く握る。それと同時にどうすればいいのかと泣き崩れそうにもなる。
「とう、さん......」
悲しみと混乱の狭間に立つ洋平に、牙を口腔内に携えた聡が声をかけた。紅い瞳が黒い瞳の奥に眠る葛藤を見抜くように煌めき、聡の顔の血管が徐々に浮かび上がっていく。薄く開かれていた口が笑うかのように大きく開かれる。
目の前の事象を目の当たりにしても、洋平は大口を開けている男が自分の息子だと逃げずにその場に立ち続ける。恐怖に足が竦む、なんてことはなかった。死ぬ。その確信だけが彼の筋肉質な体に残っていた。
牙が迫り、息子との視線が途切れ、桃色の口内が視界一杯に広がる。彼は目の前で鎌を振るう死神の姿を認め、それに自身の生を預けた。
けれども、数瞬後には訪れるはずの死が洋平の体に訪れることはなかった。視界情報を脳に送り、洋平は先ほどまで凶器のような歯が並んでいた口内のあった場所を認識した。そこに桃色の景色はなく、怯えたようにベッドの端につかまる聡の姿があった。
「俺、今、父さんのこと......」
「喰おうとしてたな」
瞬間、聡の理性が決壊し、涙が彼の頬を流れ落ちた。洋平は聡のもとへ一歩踏み出す。それを聡は来るな、と拒む。洋平は踏み出した一歩の先へ歩を進めることをためらった。
「来ないでくれ、父さん。何をするか、わからない」
しかし、その一言で洋平の足は再び動き出す。来ないでくれ、聡はベッドに置いてあった参考書や教科書、枕、シーツ、あらゆるものを歩み寄る洋平に投げつける。その姿は洋平の姿よりも何をしでかすかわからない自分自身に恐れていた。
洋平はそれらの猛攻を全て凌ぎ、部屋のちょうど半分の場所まで歩を進めていた。ベッド上に投擲できるものは既になかった。逃げ場も、距離を置くための道具も、何もかもなくなり、聡はベッドに上って手を伸ばした。筋肉のついた巨体はそこにあるだけで異様な威圧感を放っている。だが、それは洋平にとって見慣れた光景でしかない。
「父さん、それ以上来るなら、窓から飛び降りるよ」
背後にある窓枠に手をかけ、聡は威嚇するかのように洋平を睨みつけた。その視線に洋平はその先へ足を踏み入れることを恐れた。自分の行動が我が子の生死を分ける、そのことが洋平にはわかっていた。なぜだ、洋平は悲しみを湛えた瞳で問いかけた。
「吸血鬼は人を喰うんだ。俺に近づけば父さんを喰うと思う。俺は、もう知人や友人が目の前で息絶えていく様子を見たくない」
そう言い切った直後、聡の巨体が傾いた。窓の外、青く広がる大空をカラスが一羽飛んでいく。洋平は足を踏み出し、ベッドに乗り、聡の太い健脚を掴もうと手を伸ばす。しかし、伸ばした手が掴んだのは流動した空気だけ。そこにあった脚はすでに窓の外へと放り出されていた。
二階の窓から飛び降り、風を切って落下していく。小さく微笑みながら、聡は遠ざかっていく。そして、少し強めの振動と共に背中から地面に衝突、四肢が吹き飛び、四方八方に聡の体が散らばった。
「さ、さとしぃぃぃぃぃいいい!」
洋平は原形を失った我が子の肉塊に叫んだ。その声は家々に反響して返ってくる。聡の声が返ってこない現実に洋平は激しく落ち込んだ。窓のさんに手をかけ、うなだれる様に白いベッドを見つめ、彼はどうすればよかったのだと自問する。いつも通り無視していればよかったのか。あのドアを開けなければ、息子は生きていたのか。様々な可能性が頭に浮かんでは消えていく。
洋平の目頭が熱くなり、胸の奥が締め付けられるように苦しくなっていく。息を吐くごとに嗚咽がこぼれ、涙でシーツが濡れ、えずくような感覚に体を小さく蹲らせる。
二時間後、インターホンの音が静かな家の中に響いた。悲しみに暮れ、虚空を見つめることしかできなかった洋平の瞳に生気が戻り、筋肉質な体に活力が戻る。
再びインターホンが鳴った。一階には妻がいるはずだ。洋平は妻の佐代子がインターホンに出るのを待った。彼が自分自身どれだけひどい顔をしているのか、想像するのは易かった。
しかし、いくら待っても佐代子が玄関のカギを開ける気配どころか下で人が動く気配すら洋平は感じなかった。仕方なく洋平は重い腰を上げ、軽く顔を拭いながら玄関の扉を開け、その先にいた黒い紳士服を纏うどこか見覚えのある男性に声をかけた。
「お久しぶりです森中さん。中畑瞬の弟、中畑望と申します。本日、森中聡さんのことについてお話を伺いたく訪問させていただきました。少しお時間をいただけますか?」
玄関先で中畑望は警察手帳を片手に立っていた。
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