第2話

「札幌駅から数十分の距離か。タクシーを使ってもいいが......たまには歩くのもいいだろう」


 望は森中家からのはがきを胸ポケットにしまい、険しい顔つきで歩き出した。どことなく周囲を威嚇する雰囲気を撒きながら歩く望を、人々は皆忌避していく。


 道中、彼の脳裏を兄、瞬の葬式の光景が何度もよぎる。中畑家の逸材。そう呼ばれた男の葬儀は盛大に行われ、親戚だけでなく同級生、学校の教師など中畑瞬に関わってきた全ての人が参列した。全員が瞬の死を嘆き、彼の弟の出来の悪さに悪態をつく。


「吸血鬼だ!」


 そこで、彼の思い出しなくない光景の再生は止まった。声のした方には服がビリビリに裂けた、四肢を地に着く獣のような人間の姿がある。望は携帯していたハサミで手のひらを傷つけ、吸血鬼の鼻先を掠めるようにして走り去る。

 新鮮な血の匂いに釣られ、望が吸血鬼の獲物へと変わる。彼は民間人に被害が出ないよう最大限注意しながら突如として現れた吸血鬼を裏道へと誘導していく。


「さて、どうしようか」


 裏道に入ってすぐに彼は立ち止まり、手に持つ小型のハサミを一瞬見た。軽く滴り落ちる血を拭い取り、ちょうど裏道に入ってきた吸血鬼に突き付ける。その瞬間、彼は一つの違和感を覚えた。


「襲ってこない?」


 彼の調べてきた資料には吸血鬼は常に飢餓の状態にあり、空腹を満たすために人を食い殺すのだと書かれていた。けれども、目の前で真紅の瞳を煌々と輝かせる吸血鬼は、食欲に溺れるどころか、彼の顔を見るなり怯えるように体を委縮させている。


「こっちに来い」


 望はその吸血鬼を警戒しながら裏道の奥に入るように促した。彼の懐疑的な視線を浴びながら吸血鬼は無抵抗に裏道のさらに奥へと歩いていく。その小さく落ち込んだ背中に、彼は昔の自分を見た。拠り所のないまま、虐げられるだけ虐げられ、命の消滅をひっそりと願う生命の覇気を感じさせない背中。


「まさか......」


 ふと彼の脳裏を森中聡の顔が横切った。瞬の死体の第一発見者であり瞬と最も仲の良かった彼の顔。だが、今彼が追い詰めている吸血鬼は彼の記憶にある聡の顔とは全く異なっていた。やせ細った不健康そうな体は、彼の考えを否定する。


 彼は一人で首を振りながら吸血鬼を追いやった陽の光さえ届かない裏道の最奥までやってきた。その奥で吸血鬼は強く握りしめた拳を何度も何度も家々の塀にぶつけていた。その吸血鬼の足元は血か、汗か、何かの液で濡れていた。


「自我が残っているなら答えろ。貴様は何者だ」


 警察手帳を見せながら望は問いかけた。

 彼の言葉に反応し、吸血鬼が首だけを反転させる。森中聡だ――。望は頭ではなく、心で直感した。この吸血鬼は森中聡、兄の死体の第一発見者であると。

 それを確信した瞬間、彼は吸血鬼となった聡に当て身をいれて態勢を崩し、一本背負いでコンクリートの道路へ背中から聡を叩きつけた。吸血鬼の紅い瞳と目を合わせ、手に持つハサミを吸血鬼の喉元へ押し当てる。彼の瞳には憎悪の炎が燃え盛り、聡の瞳には悲哀の清流が流れていた。


「望君、だね?」


 弱弱しい声、けれども森中聡を彷彿とさせる声音に望はさらに怒りを滾らせる。


「お前か」


 焦点の合わない眼で虚空を見つめながら憎しみに染まった声を望は吐き出した。彼の脳には葬儀の時に出会った聡の姿が浮かんでは、すべてが幻だったかのように消えていく。彼は胸ポケットからメモ帳を取り出し、地面に投げつけた。

 その中からボールペンが転がり、聡の顔の横で止まる。鮭の絵柄がプリントされたボールペンだった。


「兄さんを殺したのは、お前だったのか」


 望のハサミを押し込む力が強まり、聡の喉元から血泡が漏れだす。聡は自身に死が近づいていることを知りながらも、抵抗する様子を見せなかった。ハサミの刃はどんどん奥へと入っていく。

 だが、聡は何も抵抗しない。ただ転がったボールペンを見て、涙を流し、口パクで『ごめんな』そう呟き続けていた。


「なんで抵抗しない」


 あまりの無抵抗さに望はハサミをそれ以上押し込むことをやめた。瞳の奥で燃え上がる炎は消えていないが、その中に理性という制御装置が復活していた。

 望がハサミを仕舞った瞬間、それまでボールペンを見ていた吸血鬼の眼が望を見た。懇願するような、悲しい視線。

 彼は、やせ細ってしまった腕を望に伸ばす。神に救済を求める信徒のように、はたまた死が救済であると信じて止まない精神病患者のように。


「望君。僕は、君の運命さえ、不幸へと導いてしまったみたいだな......」


 震えた声で涙を流しながら彼はそう言った。路地裏に影が差し込み、望の顔が隠れる。ガサガサの手が望の頬に触れ、優しくなでるように何度も何度も上下を往復する。


「確か望君は、社長になりたかったんじゃなかったかい? そのために経営学を学べる大学を志望してただろ。なのに、警官になっちまうだなんて......」


 聡の頬を幾筋もの涙が流れ落ち、日の当たらない路地裏の道に跡を残していく。望は何かの前兆を感じ取り、聡の手を握ろうとした。だが、それよりも早く聡は地面に手を置き、覚悟を決めた視線を望に向けた。


「望君、僕を、殺してくれ」


 涙ぐみながら鋭く伸びた犬歯を口元から覗かせる聡。悲しみを堪えて自分の死を望むその笑顔に望から殺意が湧くことはなかった。

 望自身、兄を殺した吸血鬼を恨んでいた。だが、目の前で涙を流す聡を、吸血鬼として見ることができなかった。

 時間が経っても自分を殺そうとしない望に、聡は痺れを切らす。


「君は警官だろう! 市民の脅威が、今君の目の前にいる! 殺せる、排除できる距離にいるんだぞ!」


 雲によって太陽が隠れ、ひんやりとした空気が二人を包む。

 望は聡に圧し掛かったまま胸ポケットにしまったハサミへと手を伸ばす。心臓の鼓動が全速力で走った直後のように高鳴る。脳が痺れ、手先が震えた。


 まだ押しが足りないと判断した聡は、最後のカードを吐き出した。


「――君は、瞬を殺した僕を、ずっと恨んでいたはずだ」


 刹那、『警察官』と『吸血鬼』の三文字が頭の奥底で明滅し、心の内から湧き上がる殺意が正当化され、影に光が奔り鮮血が飛び散る。質量のある球体が頃がり、首から上のない人間の体とその上に跨る血を被った人間だけが静かな路に残った。

 望は無意識のうちに動いていた右手を見た。噴き出した聡の血を大量に浴び、真っ赤に汚れた刃。生物を斬り殺した、肉を裂く感触が残る右手。彼は、ハサミを思いっきり投げ捨てた。カンッと高い音を鳴らして転がっていくハサミは道路脇の下水路へと落ちていった。


「俺は、警官だ。吸血鬼の殺害は与えられた仕事で、やらなきゃいけない義務なんだ」


 彼は、義務という言葉で自我を保ちながら立ち上がった。携帯電話を手に取り、吸血鬼の排除と、解剖へ回すことを同業者に連絡した。胸ポケットから煙草を取り出し、火をつける。瞬く間に白い煙が舞い上がり、日の隠れた空に溶けていく。


「兄さんを殺した......か」


 彼は公私どちらの気持ちを優先させて殺したのかを気にかけていた。吸血鬼の排除は警察としての当然の仕事。故にそこには国民一人一人の安全のためにと思う心がある。彼の脳裏に、無意識に動いていた右手と血塗れになったハサミが浮かび上がる。

 俺は、私怨で殺したんじゃないのか。 彼は自問した。けれども返ってくるのはカラスと猫の小さな鳴き声だけだった。

 望は次第に黒雲が出てきた空に向かってもう一度煙草の煙を吐き出し、煙草を捨てた。火を踏みつけて消し、メモ帳を拾い上げる。

 びっしりと書かれたメモ帳の最後のページを破き、それを亡骸となってしまった森中聡の胸に置いて望はその場を立ち去った。

 黒雲に覆われた空は今にも雨が降りそうなものへと変わっていた。


 彼と入れ替わるように入ってきた警察は真っ先に胸元に置かれた紙を拾い上げた。


『吸血鬼。名前は森中聡。年齢20

 森中聡の住んでいた家が近くにあるため、中畑はそちらに向かいます。情報を得次第報告します』


 メモ帳を拾い上げた男は一瞬眉間に皺を寄せたのちにふっと笑い、その紙をポケットにしまった。


「よし、入り口を塞げ。これより吸血鬼の身元確認と解剖を行う」

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