第58話 大好き


 父親の運転する車が実家のほうへ戻っていく。

 僕はそのセダンが交差点を曲がって見えなくなったのを確認すると、《ひだまりハイム》の入口へ足を向けた。

 僕の体を気に掛ける母親が今日くらいは実家にいなさいと言ったけど、僕はアパートのほうが落ち着くからと謝絶した。

 それは事実でもあったけど断るに至る理由ではない。


 僕は腕時計で時間を確認する。

 時刻は十八時四十二分。

 約束の時間まであと十八分ある。

 一旦、部屋に戻っても良かったけど、僕はそこら辺を散歩して時間を潰すことにした。


 散歩しながら何度も手紙を読み返した。

 でもやっぱり僕は彼女の意図するところが分からなくて、そのまま十九時五分前となった。

 遅刻しちゃまずいと少し速足で三階へと上り、逸る心臓を宥めすかしながら三〇五号室へと進む。


 黄瀬さんの部屋の前に立つ僕。

 深呼吸を三回繰り返したのちインターホンを押した。


 室内から聞こえる呼び鈴の音。

 しばらくすると「入って下さい」と黄瀬さんの声が聞こえた。

 僕は言われた通りドアを開けて中へと入る。

 初めて入った黄瀬さんの部屋。

 そこに当の彼女はいない。

 ふと靴棚の上に目をやるとシビッカのフュギュアや写真などが飾られていた。


「……黄瀬さん?」


 僕は呼びかける。

 するとユニットバスの扉がゆっくりと開く。

 中から出てくる黄瀬さん。

 彼女はにゃんメイドの制服を着用していた。

 呆然とする僕。

 黄瀬さんは僅かに含羞を含んだ笑顔を浮かべると、肉球グローブを顔の両脇に添えてお出迎えのポーズをする。

 やがて彼女は口を開いた。


「お帰りなさいませ。ご主人様っ。入国をお待ちしておりましたのラ」


 これは。


「でもでも、あなた様が本当にこの《にくきゅーフレンズ》のご主人様か分からないので」


 もしかして。


「いっせーのせで、にっきゅ、にっきゅをするのラ」


 いや、間違いない。


「にゃんメイドとタイミングが合えば、あなた様は《にくきゅーフレンズ》のご主人様なのラ」


 ここは僕と黄瀬さんの、


「いくですのラ。……いっせーのせ――にっきゅ、にっきゅっ」


「に、にっきゅ、にっきゅっ!」


 ――二人っきりの《にくきゅーフレンズ》らしい。


 靴を脱いで部屋に上がる僕は、黄瀬さんに廊下の奥へと案内される。

 六畳間とを隔てるドアを開ける彼女が「こちらへお座りくださいのラ、ご主人様」と手を向けた先。

 そこにはパステル調のラグの上にテーブルがセットされていて、その上には見慣れた料理が並んでいた。


 僕は思わず黄瀬さんに振り向く。

 彼女は、はにかみながら言った。


「ご主人様が好きな、にくきゅー萌えにゃんセットをご用意しておいたのラ。ちょっとだけ違うけどこれで良かったの、ラ?」


 上目遣いで可否を問うまるちぃバージョンの黄瀬さん。

 僕だけのにゃんメイドが、僕だけしかいない《にくきゅーフレンズ》で、僕だけのために作ってくれた、おそらく僕しか食べることのできないオリジナルのにくきゅー萌えにゃんセット。


 否を選ぶ理由なんてあるわけがない。

 ご主人様冥利に尽きるこのおもてなしに少しでも文句を言おうものなら、僕は阿鼻地獄に直行することになるだろう。


「は、はいっ。これでいいです。いや、これが良かったですっ」


「出来立てではないので、ちょっと冷めてるかもですけどごめんなさいのラ」


「ちょっと冷めてるほうがいいんですよ。あ、その、サービスって……ありますか」


 サービスとはもちろん、《ドリンクおいしくなぁれ》と《ケチャップお絵かき》、そして《サラダまぜまぜ》の三つだ。

 別になくてもこのシチュエーションだけで大満足だけど一応、聞いてみる。

 黄瀬さんが頷き、猫耳が揺れた。


「もちろんなのラ。そのサービスがあってこその、にくきゅー萌えにゃんセットなのラ。でもサービスはそれだけじゃないのラ」


「え? ほかにもあるんですか?」


 三つのサービスが付随することの嬉しさに浸る間もなく、新たなサービス付与のお知らせ。

 もしかしてだけど、そのサービスは僕だけのためのサービスなのかもしれない。


「はい。お口、あーんしてあげるのラ」


 ビンゴ。当たりだ。


 お口、あーん。

 それは飲食業であるメイド喫茶では絶対にできないことであり、もしもしてしまったら風営法違反となる禁忌のサービス。

 それを僕にしてくれるらしい。

 無論、ここはお店ではないしタブーではないのだけど、黄瀬さんからのお口、あーんである。

 僕はごくりと唾を飲み込んだ。


 黄瀬さんが座ってくださいと促す。僕は言われた通り腰を落とす。

 ――のだけど。

 膝を曲げた瞬間、例の脇腹の痛みが僕を襲い、そこを押さえようとして体勢が崩れる。


「あっ」


 と声を出す僕はそのまま、黄瀬さんにもたれかかる。


「大丈夫――きゃっ」


 支えてくれた彼女ごと、僕はベッドへと倒れ込む。


「ご、ごめんなさいっ」


 図らずも黄瀬さんの上に覆いかぶさった状態となり、僕は慌てて体を離そうとする。

 でも黄瀬さんの手が首に回って立ち上がることができなくなった。

 下になった黄瀬さんが僕を見上げる。


「ありがとう、須藤君」


「何が、ですか」


「私のために傷だらけになってくれました。だからありがとう」


 謝意を述べる黄瀬さん。

 のラが抜けているけど僕はスルーした。


「それなら気にしなくてもいいですよ。あいつら許せなかったので」


「なんで許せないんですか? どうして私のためにそんなにしてくれるのですか?」


「それは……」


 距離が近い。

 だから僕はもう少し離れようとした。

 でも黄瀬さんの力は思いのほか強くて、僕はあきらめた。


「それは、なんですか? 教えてください」


「今ですか?」


「はい。今です」


「えっと、どうしても?」


「どうしてもです。じゃないと御給仕しません」


 ぷくっと頬を膨らませる黄瀬さん。


 なんだこれ。普通に萌え死しそうだ。


「料理を全部食べたあとじゃダメなんですか?」


「ダメです。だって私もう、あなたの気持ちが知りたくて我慢できないから」


 それからの至福のひと時は、この先もずっと色褪せることはないのだと思う。

 鮮やかな彩色でもって、僕をいつまでもハッピーにする魔法の記憶として永遠に。


 黄瀬さんの瞳の中に僕が見える。

 その僕は笑っちゃうほどに真剣な顔をしていて。

 吹き出してしまう前に僕は彼女にありったけの想いを伝えた。

 


「黄瀬さんのことが好きだからです。大好きだからです。だからいつか僕のお嫁さんになってください。お願いします」 



 言ってからちょっとオタクっぽいよなって反省。

 でも黄瀬さんはこう返してくれたんだ。


「わたしも須藤君のこと大好き。こちらこそお願いします」


 僕の上半身はもう一度彼女にくっついた。                   

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