第55話 獣と臆病者


 ――最後。

 

 それを手紙で伝えられたとき、不思議と落ち込むことはなかった。

 文面からネガティブな印象を受けなかったからかもしれない。

 前向きに突き進んでいく彼女の姿が見えたからかもしれない。

 ならば僕はまるちぃの気持ちを尊重し、気持ちよく送り出するのみだ。

 それが一途にまるちぃを想い続けてきたご主人様(僕)の役割なのだから。

 

 そのあとのことは考えていない。

 黄瀬さんに思いの丈をぶつけるのは決まっているけれど、今はまだいい。

 まずはご主人様としての僕で、彼女との関係にフィナーレを迎えなければならない。

 

 電車のアナウンスが、鷲谷に到着したことを告げる。

 山手線では一番利用数が少ないとされている駅だ。

 事実、人の乗り降りは少なくて、僕の車両には三人の男性だけが乗車してきた。

 

 あれ? あ……っ。

 

 見たことのある三人だと思った。

 僕の座席の真ん前に座る男達。

 その左端の一人は赤い髪をしていた。

 見たことがあるのも当然だ。

 こいつらは黄瀬さんの部屋に押しかけた最低最悪のDQNなのだから。

 

 真ん中のロン毛の男と一瞬、目が合う。

 僕は咄嗟にスマートフォンに視線を落とす。

 でもその男は僕のことは覚えていないのか、仲間の二人と会話を始めた。

 

 しかし、何だってこいつらは電車に乗っているのだろうか。

 待て待て、DQNだって電車に乗る。

 ならば外回りではなく内回りではないかと僕は思う。

 DQNが行きそうな池袋や新宿、あるいは渋谷だって内回りの方が近いのだから。

 

 僕は怪訝に思う。

 でもこんな奴らのことを考えたって時間の無駄だとイヤホンを耳に付ける瞬間だった。

 その声が聞こえたのは。


「《にくきゅーフレンズ》だっけ? 本当にいんだろうな」


「だからちゃんと調べたっつーの。今日、勤務日ってのは間違いねーよ」


「でも直樹さん。店で会ってどうすんすか。オムライス頼むんすか」


「頼むかよ。店から連れ出してめちゃくちゃにしてやんだよ。メイド服はぎ取って写真とってSNSに投稿してやる。私とやりたい人、募集中ってな」


「やっぱり、直樹さん、クズっすね」


「うるせーよ。俺のことを無視してコケにしやがって。あのアマぜってー許さねぇ」


「けっこうな人に見られるんじゃね? 俺ら他人のふりしてていい?」


「おめーらもやるんだよ。女紹介してほしかったらな」


 ほかの乗客の話し声もあったはずなのに、その会話だけがはっきりと聞こえた。

 心がとてつもない怒りに戦慄いている。

 体にも波及しそうな瞋恚の炎を僕は必至に押さえつける。

 

 こいつらはどこまで黄瀬さんを、まるちぃを傷つければ気が済むのだろうか。

 暗く淀んだ過去に囚われた自分を取り戻すために、必死にがんばっている彼女をなぜ邪魔しようとするのだろうか。

 人の心を持っていないのだろうか。

 

 そうだ、こいつらはけだものだ。

 ただ、己の欲望を満たせればそれだけでいいと考える、糞にも劣る下種野郎共だ。露ほどの生きる価値すらないゴミ屑野郎共だ。

 

 それが分かっているのに。

 黄瀬さんに危機が迫っているというのに。

 二メートル先に排除すべき敵が座っているというのに。

 

 くそ……ッ。

 

 躯体と精神を恐怖に雁字搦めにされた僕は結局、秋葉原に着くまで何一つ行動することができなかった。



 

 電気街口から出ていくDQN三人。

 スマートフォンの画面を見る赤髪の男が《にくきゅーフレンズ~妻恋坂店~》があるほうへ指を向ける。

 秋葉原という街にあまりにも不釣り合いな三人はその方向へと歩き出す。 

 

 その後ろをまるで尾行するように付いていく僕。

 自分をこんなにも情けないと思ったことはなかった。

 憎いと思ったことはなかった。

 いつだってDQNを心の中で罵倒しながら、その実は面と向き合おうともしないどうしようもない臆病者。それが須藤樹。

 

 そんな自分にほとほと嫌気が差す。

 自分のような男の胸で泣いてくれた女性の最悪の未来が見えているというのに。

 その女性に最悪を与える連中がすぐそこにいるというに僕は――。

 

 秋葉原のメインストリートを抜けていくDQN三人。

 あと二十分もすれば芳林公園へと着くだろう。

 その芳林公園を抜けて左方の神田白山線沿いの歩道へと出れば、《にくきゅーフレンズ~妻恋坂店~》はすぐそこだ。

 

 ふと、煩悶する脳内で二人の僕が角突き合いを始める。

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