第54話 無糖のブラックコーヒー
長い傾斜の直進が終わり、左折のあとにショートストレート。
最後の力を出し切るかの如く、僕は漕いで漕いで漕ぎまくる。
エアギアはもう6速だ。
それは柑奈も同じで、必死の形相が彼女に限界が近いことも示している。
僕も同じようなものだけど柑奈には絶対に負けられない。
最初は競争じゃないと思ったけど今はもう違う。
僕は柑奈に勝ってそして――。
「うおあああぁぁああっ」
「えぇっ? ちょっ……」
叫び、筋肉を鼓舞する。
柑奈の自転車の前輪が後ろに下がる。
僕の自転車がカエルの公園の入り口に突っ込んだ。
「はぁはぁ……勝った。勝ったあぁぁぁっ」
ガッツポーズの僕の横で疲れ切った表情の柑奈。
彼女はこちらに顔を向けると悔しそうに顔を歪めた。
「あー、悔しいーっ、運動音痴のイッキーに負けたーっ」
「運動音痴で悪かったな。でも勝った。やった」
「うー。……でもなんか、ちょっとイッキーらしくなかったんだけど」
「そうか? いつもは本気だしてないだけだよ」
「何その、ノブリンみたいなオタクくさい理由」
「嘘。いつも本気で今日は超本気。おかげで勝てた」
「ふーん。超本気だったんだ。でもなんで? なんでそんなに勝ちたかったの?」
「勝った勢いで言っちゃおうかなと思って、なら勝たなきゃって思って」
「何を誰に言うの?」
「なあ、柑奈」
「何?」
いいタイミングなんだと思う。
そういった意味では柑奈に感謝しなければならない。
もしも自転車競走がなければ、この爽快にしてすがすがしい気持ちは生まれなかったのだから。
生まれたからこそ、その言葉は僕の口から躊躇いもなく出てくれるのだから。
「僕さ、黄瀬さんが好きなんだ。だから土曜日に告白しようと思ってる」
昨日、黄瀬さんは彼女の全てを僕に話してくれた。
誰にも話したことのない全てを僕に。
それがどういう意味を持つのか完全に理解できたわけじゃないけれど、少なくとも僕のやるべきことは確定された。
その一歩が今の柑奈に対する表明だった。
柑奈が僕の目を見詰めて離さない。
僅かに見開かれた双眸が幾度かの瞬きののち、三日月のように細くなった。
彼女は天真爛漫な彼女のままでいてくれた。
「うん。がんばって。応援してる」
「ありがとう。柑奈のおかげで勇気が持てた。本当に昨日はありがとう」
「いえいえ、お気になさらずに。カンナもイッキーに失望したくなかったし、最良の展開だと思う。うんっ。……あ、ジュースだっけ? ちょっと待ってて」
「え? ああ」
柑奈が自転車に乗ったまま、道路の向こう側にある自動販売機に向かう。
そういえば負けた方がジュースを奢るって約束だった。
柑奈としてはまさか自分が負けるとは思ってなかったのだろう。
今頃彼女はジュースを買いながら舌打ちでもしているのかもしれない。
柑奈がが取り出し口から缶を取り出す。
飲みたいジュースを伝えていなかったけど、一体何を買ったのだろうか。
「おーい、イッキー」
僕を呼ぶ柑奈。
「何ー?」
「投げるよー」
「投げ、え? 投げるって……」
柑奈がピッチャーのように構える。
手に持っているのはジュースの缶。
まさかそれを投げまいと思ったけれど、柑奈ならやりかねないと僕は慌てて自転車から降りた。
「せーのっ」
「お、おい、ちょ、ま――」
振りかぶっていた右手を勢いよく下ろす柑奈。
本当に飛んでくるジュースの缶。
若干の曲線を描いてはいるものの、速度は出ている。
僕はジュースの軌道を読んであたふたと移動し、両手を前に出す。
右手の掌に当たって下降していくジュース。
しかしなんのその、僕はなかなかの反射神経を発揮すると、地面に落ちる前に両手で抱えるようにしてキャッチした。
「よっしゃ!」
いや、よっしゃじゃなくて、あいつ何やってんだよっ。
「柑――」
「ナイスキャッチ、イッキー。そうやって黄瀬さんの気持ちもうまくキャッチするんだよーっ。それとカンナ、別にイッキーのこと諦めたわけじゃないからねー。取り合えず気持ちに蓋はするけど、なくなるわけじゃないからねーっ アディオースっ」
颯爽と自転車に跨り、去っていく柑奈。
「ア、アディ? あ、お、おい、柑奈っ」
柑奈は角を曲がって消え、一人取り残される僕。
呆然としながら視線を落とすとそこにはブラックコーヒーがあった。
僕がコーヒーが嫌いなのを知っているのに、しかも無糖のブラックコーヒーを渡す彼女の心理は結局、一日かけても理解できなかった。
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