第50話 絶対にキミを離さない


 三〇五号室の窓が開く。

 黄瀬さんが呼びかけに応じて出てきてくれたのだ。

 

 でもほっとしたのも束の間。

 奴らが黄瀬さんの部屋に入る前に全て終わらせないと意味がないのだ。

 インターホンが聞こえたような気がしたが、奴らがもう来たのかもしれない。

 まずい。


「き、黄瀬さんっ、良かった、あ、あの、すぐにこっちに来てくださいっ」


「え? 一体どういう……」


「あ、あいつ、えっと、黄瀬さんのかれ、じゃなくて赤髪の男が来てるんですっ、ほかに男を二人連れて、黄瀬さんにメイド服を着せて何度も犯すとか乱暴するとかめちゃくちゃにするとか言ってるんですっ、だからベランダ越しにこっちに来てくださいッ」


 あえて奴らの言動を誇張する。

 黄瀬さんに危機感を抱かせるためだ。

 暗がりでも分かる黄瀬さんの青ざめた顔。

 僕は確信した。

 それは、一度、同じようなことをされているからこその瞬発的な恐怖の表れだと。


「わ、分かりました。でもベランダって、この仕切り板を壊せばいいんですか」


「ダメですっ、ダメですっ。僕の部屋に逃げたってばれちゃいますから。だから柵越しに来てくださいっ」


 黄瀬さんの部屋からインターホンが鳴り響き、ドンドンッと玄関ドアを叩く音が聞こえる。

 もうそろそろしびれを切らしたDQN三人が鍵を開けて入ってくるかもしれない。


 チェーンを掛けてあれば大丈夫かと脳裏を過る。

 しかし黄瀬さんが部屋にいることがバレた時点で終わりであり、寸秒で却下された。


「柵越し、ですか」


 ベランダから下を覗く黄瀬さん。

 そこには落ちたらどうしようという不安が見て取れた。

 僕はすぐさま払拭に走る。


「大丈夫です。僕がずっと支えてますから。だから、だから僕を信じて早くっ」


 三秒後、黄瀬さんの憂慮の表情が決意のそれに変わる。


「分かりました。あ、でもちょっと待ってください」


 言うや否や、黄瀬さんは部屋の中に入る。

 するとポーチと靴を手に持って戻ってきた。

 僕はそのポーチを受け取ると自室へと投げ入れる。

 これもお願いしますと言われたので、渡された靴も部屋に置いた。


「靴があったら、部屋にいるって思われちゃうかもって」


 そうだ。そのことを失念していた。

 気づいてくれた黄瀬さんに感謝である。

 電気も消した方がいいかと思ったけど、DQNが前もって明かりが付いていることを確認しているかもしれない。

 だからそのままでいいだろう。


 僕は次に彼女にカーテンと窓と閉めさせる。

 極力、ベランダから逃げたと思わせないためだ。

 本来なら内側から鍵も閉めるべきだが、そんな密室トリック的なことができるわけもない。


 でも案ずることはない。

 窓の鍵が開いていたからといって、まさか隣室へ退避したなどとは思わないだろう。

 靴もないとなれば、誰もが外出中だと結論づけるはずだ。


 再び、玄関ドアを叩く音。

 黄瀬さんに呼びかける声も聞こえる。

 おそらくこれが最後通告。


「さあ、柵を乗り越えて。大丈夫。僕を信じてください」


「はい。じゃあ、行きます」


 僕は柵を跨いだ黄瀬さんの体を右手でしっかりとホールドする。

 こんなにも華奢で繊細なのかと僕は驚く。

 同時に絶対に守ってやろうという庇護欲が沸き上がった。


 黄瀬さんの体が完全に柵の外に出る。

 僕は更に力を込めて黄瀬さんの体を押さえると、出された左手を掴んでゆっくりと彼女の動きに合わせて引き寄せた。


「その調子です。大丈夫、僕が押さえてますからね。慌てないでゆっくり、です」

 言われた通り、慎重に慌てずこちらに体をずらしていく黄瀬さん。


「怖い、です。絶対に離さないでくださいね」


「絶対の絶対に離しませんよっ。さあ、もうすぐです」


 近づく彼女の顔が眼前にくる。

 吐息が鼻を撫で、どぎまぎが駆け巡る僕。

 しかし甘美なそれに浸っている場合ではない。

 僕は左手を黄瀬さんの脇の下に手を入れ、今度は両手を背中に回した。

 あとは持ち上げるだけだ。


「おい、まどかいねーのかっ」


 不意に聞こえる隣室からの怒声。

 DQNがとうとう三〇五号室に侵食してきたのだ。


「きゃぁっ」


 ――ッ!?


 突然、黄瀬さんの体が重くなる。

 柵の下に置いていた足が滑ったようだ。

 おそらく今の赤髪の声が黄瀬さんの心に大きな動揺をもたらしたせいだろう。


「大丈夫っ、大丈夫ですからっ、僕が絶対に落としませんからっ。足を柵に、乗っけて、くださいッ」


 ぐぬぬと歯を食いしばって黄瀬さんを持ち上げ、彼女が再び足を柵に置くのを待つ。

 その間、三〇五号室がやたらと騒々しくなる。

 黄瀬さんがいないことに慌てふためている感じだ。

 今頃、トイレ、バス、クローゼット、ベッドの中や下と捜索しているに違いない。最後には当然、ベランダだって確認するはずだ。


 見つかった大変なことになる。

 その後のことなんて想像したくもない。


「どうしよう、私、体硬まって……もうだめ、かも」


 弱気に満ちた震える声。

 ただでさえ小柄な体が更に小さくなったような気がした。


「ダ、ダメなんて言わないでください。あともう少しなんですからっ」


「須藤さんは部屋に戻ってください。私が勝手に隣室に逃げようとした。そういうことにしますから。だからもう、いいんです」


 己の境遇に甘んじようとする黄瀬さん。

 現状から脱したいはずなのに。

 だからこそ僕の呼びかけに応じたはずなのに。


 僕は彼女の目を見て話す。

 絶対に逸らさないと決めて。


「諦めてはダメです。これ以上、黄瀬さんが悲しむなんてダメです。まるちぃが悲しむなんてダメです。自分のために、僕のために、諦めないでください。《DEBURIな逆境えぶりでぃ》です。シビッカのように、逆境なんてゴミ箱に捨てて前に進む姿を僕に見せてください」


「シビッカの、ように……」


 黄瀬さんの表情から喪失の影が消え、変わりに意志の光が垣間見える。

 力強く頷く黄瀬さん。

 絶念を追いやった彼女を僕は力強く抱きしめ、硬さの消えた体躯を上へと持ち上げていく。

 お腹辺りまで上げたところで黄瀬さんが自ら、三〇六号室のベランダへと降りた。


 そのとき、ガラガラっと三〇五号室の窓が開いた。

 室内の光と共に男の声が外に溢れる。

 僕は黄瀬さんを引き寄せて仕切り板に張り付く。


「ベランダにはいないっすね。ちなみに下にもいないっす。やっぱり外に出かけたんじゃないっすかね」


 赤髪ではないDQNはそれだけ言うと再び室内へと入っていく。

 下じゃないなら横かと可能性をしらみつぶしに当たるような奴でなくてよかった。

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