第40話 高倉


 言えた。良かった。

 

 まどかは部屋に入るとほっと胸をなでおろす。

 須藤樹は毎週土曜に来てくれてはいるが、明日も来てくれるとは限らない。

 何か理由や用事があって来れない可能性だってあったのだ。

 あるいは理由の一つとして、まるちぃという存在に飽きたから行かないっていうのもないことはなかった。

 

 しかしそれは須藤樹の返答で全くの杞憂に終わった。

 彼の言葉に迷いや惑いは感じられなくて、ストレートにまるちぃと会いたいという純粋な気持ちが伝わってきたからだ。

 

 ――だから言って良かった。

 

 それにしても仄かな期待は抱いていたが、本当に須藤樹をベランダで認める、しかも話までできるとは思わなかった。

 きっかけを与えてくれたのは彼だが、まどかの能動性がその機会を引き寄せたとも言えた。

 

 とても不思議な感覚だった。

 お店でにゃんメイドとご主人様の関係でいる二人が、仕切り板を挟んで素の状態で話をしていたというのが。

 ただ、まどかのほうはメイド服を着用していたので、そのあべこべさがまた非現実さを助長していたのかもしれない。

 

 しかしあの体験が現実の時の流れにあったのは事実。

 そう思うと、あの会話はあれで良かったのか、つまらないことを聞いてしまったのではないか、もっと話せばよかったのではないかなどと、今になって考えてしまうまどかがいた。

 

 もう過ぎたこと。

 ちゃんと最後に伝えたいことを言えたのだからそれでいい。

 まどかはそう割り切る。

 と、そのときインターホンが鳴った。

 瞬間的にドアに振り向くまどかは、その声を聞いた。


「まどか。俺。いるんだろ? 開けてくんね」


 高倉だ。

 どうして。

 なぜあいつが。

 今日はアルバイトがあって来ないはずなのに。

 

 高速で回転する脳が、対応すべき行動のいくつかを思考の渦に放り投げる。刹那、ひと際大きな優先項目が眼前で弾けた。


 ――着替えなくてはならない。

 メイド服を高倉に見られてはならない。

 

 まどかは慌ててメイド服を脱ぎ始める。

 幸い、ベランダに行く際にくきゅーグローブは外していたので、それほど着替えに時間は掛からないはずだ。

 しかし高倉が待っているという圧力が冷静さを奪い取り、余計な手間を取らせる。

 もう一度インターホンが鳴り、ドンドンッとドアを叩く音が続く。


「まどか。いないのか?」


 と高倉。


 その問い掛けからまどかは気づく。

 高倉はまどかが部屋にいる確証を抱いていないということを。

 メイド服をどうにかしなければならないという気持ちが先行して、居留守という、それこそ最優先の選択肢を排除していたようだ。

 

 まどかは急遽、方針転換を試みる。

 脱ぎかけだったサイハイソックスをそのままにゆっくりとベッドに座る。

 あとは物音を立てずに高倉が諦めて帰っていくのを待つだけだ。


 いや、郵便受けを開けて隙間から明かりが見えたら在宅だとばれてしまう。

 静かにベッドから立ち上がるまどかは、シーリングライトの紐に手を伸ばす。

 先行して訪れる安堵感に身を預けようとした矢先、音楽が鳴り響いた。

 沈黙の支配していた部屋でその音色は最大限の主張をする。

 まどかは心臓が激しく胸を叩くのを感じながら、机の上のスマートフォンを手に取り音量を下げた。


 ひと際大きなドアを叩く音。


「いるじゃねーかよ。早く開けろよ、おいっ」


 高倉からの着信を告げる音の代わりに、高倉の怒号がノイズとして飛んでくる。

 もう出るしかない。

 しかし着替えは終えなくてはならない。

 高倉に知られるわけにはいかないのだから――。


「お前、何やってんだよ。いるならさっさと開けろよ」


 ドアを開けると、高倉がまどかを押しやるようにして玄関に入ってくる。


「ごめんなさい。トイレに入っていたから」


「返事くらいできんだろ。あー、腹減った。なんかね?」


 高倉は勝手に冷蔵庫の中を物色しはじめると、見つけたサンドウィッチを手にしてリビングへ移動する。

 明日の朝に食べる予定だったものだが、それをこの男に言ったところで返しはしないだろう。

 迷惑な来訪者は乱暴にフィルムを剥がすと、サンドウィッチに噛りついた。


 まどかはリビングの入口に立ったまま聞く。


「今日、アルバイトはどうしたの?」


「あ? あー、辞めたんだわ、あそこ」


「辞めたの?」


「ああ、うぜー客がいてさ、遠隔操作してんじゃねーかって、ほんとクソかよ、あのハゲ」


 高倉のアルバイト先はパチンコ屋だ。

 接客業でもあるそこで長く働けるはずもないと思っていたが案の定だ。とはいえ、それ以外の職種でも大して続いていないことを踏まえると、仕事全般に対して不適合者なのかもしれない。

 ふと、振り込め詐欺で捕まる高倉の姿を想像してしまう。


「来るなら来るってLINEでもしてよ。いきなりは困るから」


「別にいいだろ。彼氏なんだからさ。つーか、いきなり来て困ることってなんだよ。浮気中とか、か」


「違う。シャワー浴びてたり音楽聞いてたりで気づかなかったり、もしかしたら外出中だってあるかもしれないし」


「じゃあさ、鍵一つ寄越せよ。二つあんだろ。帰りにもらうわ。……ところでお前、なんでパジャマなの?」

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