第39話 仕切り板を隔てて
「須藤さん。こっちです」
黄瀬さんの声が右上の柵のほうから聞こえる。
下でのやり取りなのになぜ、そこから話し掛けるのだろうか。
――え? 上から手渡し……?
そうとしか思えない。
僕は立つと、柵へ体を寄せる。
横をちらりと見ると、黄瀬さんが顔をこちらに向けていた。
「こんばんは。挨拶するならちゃんと顔見せないとかなって思って」
「え? そ、そうですね。じゃあ、改めてこんばんは、です」
ミッション継続。
まさかまさかのベランダでの顔見せ挨拶。
ってことは本もこのまま手渡しなのだろう。
一冊の本がとんだフラグを立てたものだ。
無事に回収できるのかと鼓動がエンジン全開を僕にお知らせする。
「はい。本です。どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
黄瀬さんから本を受け取る。
「ユーチューブ始めるんですか?」
「え?」
「そこに書いてあったので」
雑誌のタイトルは《ユーチューブで稼ごう。君もすぐに億万長者》だった。
選りによってこれかよっ。
信之がほざいていた、まるちぃの動向を生配信とかベランダからのリア凸とか推しメイドの日常を暴くとかが脳裏に浮かんでは、現状と重ね合わせようとする。
この日、初めて信之に殺意が湧いた。
「や、いやいや、始めませんよっ。えっと、その、ま、間違えて買っちゃったんです
っ。なのでいらなくて捨てるんです」
「そうなんですか。けっこうおっちょこちょいなんですね」
「みたいですね、ははは」
「あの、そういえば」
「はい?」
「この前、ベランダに出たときに《スマシス》の音楽聞こえました」
「あっ、き、聞こえちゃいました?」
「はい。好きなんですか? 《スマシス》」
「そうですね。よく友達と一緒にやってます。黄瀬さんもやるんですか」
「はい。ただ、私はシングルプレイかネット対戦だけですけど」
「あの」
「はい?」
「あ、いえ、なんでも、ないです」
「そうだ」
「え?」
「もらったピンバッジ。あれ、学校の制服に付けているんですよ」
「わ、マジっすか。それはなんというか、嬉しいです。はい」
「学校指定のピンバッジみたいな感じになってます」
「はは。なら良かったです。似合ってるってことですもんね」
「はい」
「……」
「空」
「空?」
「空、星出てますね。だから明日は晴れそうです」
「そうですね。まだ梅雨ですけど、この星の数なら明日は絶対晴れますよ」
「……もうそろそろ、部屋に戻りましょうか」
「え? そ、そうですね。ベランダで話し込むってのもあれですからね」
「それでは失礼します」
「はい。あの、本ありがとうございました」
「いえ、お構いなくです」
どちらからとでもなく柵の内側へと引っ込んでいく僕と黄瀬さん。
ふわふわとした非現実的な感覚のまま、僕はそのときを待つ。
つまり黄瀬さんが部屋に戻るのを。
別に自分から戻ってもいいのだけど、なんとなく。
でも黄瀬さんが戻る気配がない。
一人で夜風でも浴びたいのかなと思い、僕は本を紐で纏めるのは後でと決めて窓に手を掛けた。
「明日……」
仕切り板の向こうから確かに黄瀬さんの声が聞こえた。
僕に対してなのか分からなくて黙っていると彼女は更に続けた。
「ご主人様のこと楽しみに待ってます」
三〇五号室の窓の開く音。
黄瀬さんが部屋に戻ろとしている。
「ぼ、僕もまるちぃに会えるの楽しみにしてますっ」
やがて閉まる音が聞こえた。
僕の中に響く黄瀬さんの最後の言葉。
リフレインされるたびに僕の気持ちが高揚していく。
今思えば、それは僕が最も聞きたかった言葉なのかもしれない。
なにせ、まるちぃである黄瀬さんと《にくきゅーフレンズ》に行く前日に会話しているのだから。
そして重要なのは、今のが黄瀬さんからのメッセージだということだ。
つまりいつものまるちぃ、あるいは更に成長したまるちぃが僕を待っている。
だとしたらランクミケもすぐだろうな。
僕は顔を綻ばせると、部屋へと入った。
まるちぃと会えるまであと一日。
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