第34話 三〇六号室のベランダが気になって
真っ暗な部屋がまどかを出迎える。
電気を付ければ無人の室内が照らされ、家を出たときと同じ状態であることにほっとする。
高倉が来る日でない以上、誰もいないのは分かっているが、一人暮らしの女性というのもあって、やはり漠然とした不安感を拭い去ることはできない。
そんなとき、最近は隣室の須藤樹を思い浮かべることにしている。
彼からにじみ出る暖かさと安心感がそんな不安を幾分、和らげてくれるのだ。
ご主人様のときと変わらぬ物腰と雰囲気の須藤樹。
裏表があるようには思えない彼があの日、コンビニでまるちぃへの想いを吐露してくれた。
あれは混じり気のない純粋な気持ちそのものだった。
だからこそまどかは帰り際にあんなことを言い切ったのだ
下世話な話だが、須藤樹は毎週土曜日にお店に来てお金を払ってくれている。
それもまるちぃに会うことだけを目的として。
ならばにゃんメイドとして礼儀を尽くすのは当然であり、今日、店長の許可を得てメイド服を持ち帰ってきたのも、その一環と言えた。
まどかはリビング入ると手提げ袋からメイド服を取り出す。
学校の制服からメイド服に着替えると姿見の前に立った。
家でのメイド服着用になんだか妙な気持ちになるまどか。
いつも通りできるか早速、心が臆する。
とはいえ、メイド力が多少なりとも向上するならば自宅レッスンをしない手はない。
まどかはまず、鏡の前でにっこり笑みを浮かべる。
須藤樹にまるちぃのどこが好きかを問い掛けたとき、答えてくれた一つが笑顔だったから。
ほかにも色々あげてくれた須藤樹。
その全てを自宅で練習できるわけではないが、可能なことはもれなくやろうとまどかは決めた。
鏡に映るまるちぃが決めのポーズをとる。
「お帰りなさいませ、ご主人様っ。入国をお待ちしておりましたのラ」
んーっ、と伸びをするまどか。
練習終了である。
姿見の前での練習を三十分ほどで切り上げたまどかは、その後の三十分を椅子に座ってのイメージトレーニングに費やしていた。
その内容といえば、ほとんどがご主人様とのやり取りに関するものだ。
ご主人様との会話は、話しかけられて突発的に起きることが多々ある。
単に注文を受けるだけなら別段、大したことではない。
しかしメイド喫茶に於ける会話とは、お店の設定を下敷きにした談話や雑談であり、形式ばったやり取りでは成り立たない。
いかにボキャブラリーを駆使して瞬発的な受け答えでご主人様を満足させるか、それが大事なのだ。
よってまどかは、あらゆるご主人様と想像の中でトークを繰り返した。
やけに須藤樹の登板が多かったが、自宅レッスンのきっかけを与えてくれたのが彼なので良しとする。
そのとき、三〇六号室の窓が開く音がかすかに聞こえた。
須藤樹が部屋にいる。
だからどうしたのだろうと、まどかは思う。
時間は夜の八時二十四分。
夜までのバイトでもしていなければ、彼が部屋にいても不思議ではない。
なのに必要以上に気になってしまうのは、さきまで彼をイメージして接客していたからかもしれない。
あるいは彼のためにメイド服まで着て自宅レッスンをしていたから。
まどかは静かに椅子を引いて立ち上がると、窓に耳を近づけて
なにかガサガサと音がする。
ポリ袋にゴミでもまとめているのだろうか。
するとその物音が止む。
なのにしばらく待っても窓が閉まる音がしない。
多分、さきよりゆっくりと閉めたのだろう。
おそらく須藤樹はベランダにはいない。
今度はまどかがベランダへと出る。
洗濯物を取り込むためであり他意はない。
ならば、回収した洗濯物を持って室内に戻ればいいのにそうはしなかった。
ちょっとぐらいならと、好奇心が後ろめたさに蓋をする。
まどかは、にゃんメイドの格好のまま、緩慢な歩みで柵に近づく。
横目に三〇六号室のベランダをちらりと見る。
ご主人様はいない。
ほっとした心の片隅に、残念に思っている自分がいてまどかは驚いた。
その惜しがる感情の悪戯なのか、もう少し覗いてみようかなと妙な積極性が湧いてくる。
まどかは一歩、仕切り板の方へ近づくと、柵の向こう側に顔を出しながら九十度傾ける。
しかし見えるのは大きなゴミ袋だけであり、これといったものは何もなかった。
一体自分は何を期待していたのだろうと虚しさを募らせるまどかの耳に、音楽が聞こえてくる。
耳にしたことがあるサウンド。
確か《スマシス》だっけと思い出したとき音楽が消えた。
窓は今閉められたようだった。
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