第32話 搔き乱されるものは――
「なあ、柑奈」
「柑奈じゃなくって、キャミLOVEでーす」
後ろ姿の柑奈が、熱したフライパンでバターを溶かし始める。
そこに刻んだ玉ねぎを入れたところで、僕は声を掛ける。
「いや、どっちでもいいけど、なんでメイド喫茶風なんだよ。それがすごい気になるんだけど」
「そんなの決まってるじゃん」
「決まってる? なんで」
具材を炒める音が食欲をそそる。
手さばきからして素人には思えない。何度も作ったことがあるのだろう。
美味しそうなオムライスがテーブルで湯気を立てる光景を想像する僕。
なのに柑奈は。
僕の食欲をごっそり奪っていった。
「イッキーがメイド好きだから。メイドの恰好だったらカンナにだってできるよ。だから《にくきゅーフレンズ》なんかに行かないでいいと思うなー。カンナがイッキーのメイドになってあげる。毎週土曜にカンナ演じるキャミLOVEの作る手料理なんてどうかな?」
ケチャップの匂いが鼻をなでる。
どうしてか、その匂いが苛立ちと不快感を喚起する。
「……なんだよ、それ」
「え? ダメ? あ、だったらイッキーの家に出張メイドなんてどう? あ、変なサービスは期待しないでよね、料理を作りに行くだけだから」
「……なんだよ、それ」
「なんだよそれって、だからカンナがメイドになってメイド好きなイッキーのために、ご奉仕するって言ってんじゃん」
柑奈が振り返る。
そのいつもの口調が無性に癇に障り、急激に沸騰した瞋恚の感情が脳髄で弾けた。
「なんだよそれって言ってんだよっ」
僕は思い切りテーブルを叩く。
大きな音と振動が発生して、テーブルの中央に置いてある花瓶が揺れた。
手が痛い。でもどうでもよかった。
「…………イッキー……?」
か細く、臆したような声。
そんな柑奈の声音を聞くのは初めてであり、こんなにも僕が長馴染みに激高したのもまた初めてだった。
「それじゃまるで、僕がメイドならだれでもいいみたいじゃないか。……メイドで可愛ければ、誰だって好きになるみたいじゃないかっ」
「そ、そんなつもりじゃ……」
「そんなつもりだろっ、今の言い方じゃあさっ。……なんだってこんな、こんな、僕を傷つけるようなことをするんだよ。僕の気持ちを知っていながら」
僕がまるちぃに寄せる純粋な気持ち。
それが、メイドという属性に惹かれているだけではないことを柑奈は少なからず知っているはずだ。
僕の言動や表情、或いは所作から察しているはずなんだ。
なのになんで――。
「……イッキーの気持ちって、何?」
火を止める柑奈が突と問い掛ける。
気勢を殺がれた僕はそれでも、重く淀んだ静寂の中で答える。
――目は合わせずに。
「まるちぃが好きってことだよ。知ってるだろ」
「うん、知ってる。でもまるちぃってお店の人だよね。その人を好きになってどうするの?」
「どうするって、何だよ?」
「デートできるの? デートを重ねて愛を深められるの? ……深めていった先でキスできるの?」
「それは……」
できないことを知っていて、でもその通りだとも認めたくなくて、形成されていない言葉は当然、喉元を通らない。
「できないよね。うん、できない。だってまるちぃはお店限定のメイドっていう演者だもん。だから、イッキーの好きっていう感情はどこまでいっても成就しない。しないんだよ」
「だ、だったらなんだって言うんだよ。僕の気持ちを軽んじておいて謝りもしないで諭すようなこと言ってさっ。例え柑奈の言った通りだとしてもそれがこんな、茶化すようなメイド喫茶もどきをしていい理由になんかになりはしない! なあ、謝れよ。まずすべきことはそれだろ」
正鵠を射るかのような柑奈の物言いがいたたまれなさを増幅し、それを覆い隠さんとヒステリックな僕が鎌首をもたげる。
落ち着かなければいけない。
僕がペースを握らなければいけない。
しじまの中で呼吸を整えていたそのとき。
「黄瀬さんが好きって言ったら謝る」
「え?」
僕は思わず、両眼を柑奈に向けてしまった。
僕の視線を受け止める柑奈は「黄瀬さんが好きって言ったら謝る」と、もう一度、確かな語調で繰り返した。
「黄瀬さんって……なんでだよ?」
訳の分からない交換条件に、またしても調子を狂わせられる。
くそ、なんなんだ、お前は。
「黄瀬さんは被り物じゃないから。中の人だから。その黄瀬さんが本気で好きっていうなら謝る。イッキーの気持ちをからかうようなことしてごめんなさいって。でもまるちぃだったらやっぱり謝れない」
「なんだよ、それ。本当に意味不明だぞ。黄瀬さんだろうがまるちぃだろうが関係ないだろっ。僕の気持ちがどこに向けられようが――」
「関係あるっ。だって、猫耳の安っぽいキャラなんかに負けたくないもんっ!」
――ッ!
足が床を蹴る。
感情を置き去りにするかのような衝動的な行動。
座っていた椅子の倒れる音が背後から聞こえたとき、僕は柑奈の右肩を掴んでいた。
柑奈の見開いた双眸を僕は睨みつける。
寸秒、遅れてやってきた激情を僕は歯を食いしばって抑え込む。
勢いに任せて声を発してしまえば、怒号をぶちまけてしまうのが分かっていたからだ。
猫耳の安っぽいキャラ。
まるちぃを卑下するようなその物言いに僕は我慢できなかった。
卑下されたまるちぃに好意をよせる僕が惨めでならなかった。
柑奈、なんで、お前はそんなことを――。
声を出さない代わりに、自然と右手に力を入る。
「――痛っ」
苦痛から顔を歪める柑奈。
ひび割れた癇癪玉の隙間から理性が入り込む。
僕は反射的に右手を離すとゆっくりと下ろした。
やがて訪れる、息が詰まるような静寂。
抱擁できるような密接距離にありながらお互いを見ようとしない僕と柑奈。
その異様さも手伝ってか僕は無言のまま柑奈に背を向けると、リュックサックを手に取り廊下へと足を向けた。
「帰るよ。肩、ごめんな」
「カンナのほうこそ、ひどいこと言ってごめんなさい」
「いいよ、もう。……また明日な」
扉を抜けて玄関へ行くと僕は靴を履く。
立ち上がったそのとき背中に何かが当たった。
振り向く僕。
柑奈がくっついていた。
彼女が呟く。
それは明瞭に、あるいは悲痛を内包させたかのように。
「カンナはイッキーのことが好き。ずっと幼馴染だけなんて嫌だよ」
玄関のドアノブを握る指がぴくりと動く。
でもそれだけだ。
搔き乱されるものはなにもない。
「……じゃ」
ドアが閉まり、用を為さなくなった情感が大気に溶けていく。
搔き乱されるものはなにも、ない。
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