第29話 にっきゅ、にっきゅ
コンビニの入店時のメロディーが響く。
どこかしらほっとするその短い音楽の余韻が消え、店を出る客の談笑までが聞こえなくなると、黄瀬さんの声が耳に届いた。
「まるちぃは幸せ者ですね。そんなにも想ってくれる人がいるのだから」
彼女のその目線を追えば、そこはさきまでまるちぃがいた場所。
見えていたわけではないけれど、純粋に羨む気持ちが今もまるちぃに向けられているようにも思えた。
妙な感覚だ。
まるちぃが黄瀬さんなのに、その黄瀬さんがまるちぃに羨ましいという感情を抱いているかもしれないというのが。
それを言うならまるちぃである黄瀬さんのとなりで、まるちぃを好きになった理由を列挙していた僕も、甚だ妙ではあるけれど。
なにはともあれ。
僕の心はすがすがしく晴れ渡っている。
後悔の念は一切なくて、むしろこの場を設けてくれた黄瀬さんに感謝、である。
「まるちぃが幸せって思ってくれるなら僕も幸せですよ。だからその……とても、いい関係だと思います」
「いい関係。……そうですね。私もそう、思います……」
消え入りそうな語尾と共に俯く黄瀬さん。
そこに、自分の言葉に対するネガティブな印象は見受けられないけれど、ならばどうしたのだろうかと僕は彼女に見向く。
黄瀬さんは一瞬、体に力を込めたような微動を見せたあと、勢いよく顔を上げた。
哀切が溶けたような、でもうまく表現できない彼女の表情は僕が初めて見るものだった。
「でもまるちぃだけじゃなくて、だけじゃなくて――っ」
「黄瀬、さん……?」
黄瀬さんにしては大きな声。
タガの外れた感情に誘引された衝動のようにも思えた。
でも彼女は続きを待つ僕の前で脱力させると、再び顔を下に向け、やがてこちらに背を見せた。
「ごめんなさい。何でもないです。私、行くところあるのでこれで失礼します」
「え? あ、はい……」
デジャブのようなぶつ切り感。
ああ、アニメグッズ店でナンパ男から救出したあとの会話のときもこんなだったけなぁ、と思い出す。
結局、黄瀬さんがなぜまるちぃが好きか、好きな理由は何かと聞いてきた真意は知ることができなかった。
置いてけぼりにされたような虚しさを抱きながら、僕はコンビニの駐車場から去っていく黄瀬さんを見届ける。
振り向いて手でも振ってくれないかなと淡い期待感を過らせたところで、彼女の歩みが止まった。
すると本当に振り向いてくれた。
「私がどうであれ、ご主人様のまるちぃは変わりませんから。だから……ずっとまるちぃを好きでいてくださいね」
彼女が両手の指を動かす。
それは明らかに《にっきゅ、にっきゅ》の際の仕草だった。
今度は僕が抑えきれない感情に突き動かされていた。
「は、はいっ、ずっと好きでいますっ。あの、ほんとに、これかもずっと好きでいますからっ! にっきゅ、にっきゅうっ!!」
黄瀬さんはぺこりと頭を下げると、コンビニの横へと姿を消した。僕はワキワキしていた指を停止させると、ゆっくりと両手を下ろす。
――ずっと聞きたかったのかもしれない。
変わらぬまるちぃを信じてはいたけど、《にくきゅーフレンズ》でのまるちぃはやっぱりいつも通りだけれど。
でもどこかで、穿った小さな穴のさきにまるちぃの本心を見ようとしている自分がいて。
それは、黄瀬さんを知ってしまったからこその
赤髪のDQNとの情事を目撃してしまったあの日を境にその円い空間は急激に肥大化して、覗くのは恐怖を抱くほどだった。
けれど、今日、このとき、その覗き穴はなくなった。黄瀬さん自らが消し去ってくれたのだ。
ギュルオオオッと腹が鳴る。
僕は胃袋の要求を思い出すと、帰路へと就く。
いつになく軽やかな足取りだった。
須藤樹がコンビニから遠ざかっていく。
まどかはその後ろ姿を眺めながら、心音のリズムが徐々に安定していくのを感じていた。
須藤樹と向き合ったあのとき、まどかは危うく《自分のことも幸せにしてください》と口に出しそうになった。
もちろんそこに深い意味はなくて、まどかを支配している忌むべき現状を脱したいという気持ちからだ。
そうであっても言っていいことではない。
須藤樹の想っている人は、まるちぃであって黄瀬まどかではないのだから。
黄瀬まどかの抱える問題に彼を巻き込んでいいわけがないし、そのために彼にあんな突飛な質問をしたのではないのだ。
まるちぃという光をさらに強めてほしい。
まどかが欲したのはただ一点、それだけだった。
高倉との関係を終えることに失敗した今日、まるちぃの差し伸べる手が下ろされてしまうのではないかと、まどかは危惧を抱いていたのだ。
闇の触手にがんじがらめにされた黄瀬まどかを見て、もう手に負えないと、まるちぃが諦めてしまうことに恐れを抱いていたのだ。
だから、お礼をしたいという理由にかこつけたまどかの目論見はうまくいったのだと思う。
須藤樹はまるちぃのことを好きだと言ってくれた。
その好きの理由をたくさん述べてくれた。
最後に彼は大好きだとも言ってくれた。
それらを思い出して、まどかの心臓がまた活性化する。
まるちぃに好意的な気持ちを抱いてくれているのは知っていたが、それを言葉として伝えられるのがこんなにも嬉しくて胸を熱くするものだとは思わなかった。
須藤樹はまるちぃの幻影を作り出して、そこに向かって話しているようだったが、仮に面と向かって伝えられていたら自分はどのような反応をしていたのだろうか。
まどかは顔の熱を感じて手で煽る。
まるで彼みたいと微苦笑を浮かべたところで、《ひだまりハイム》へと足を向ける。
別に用事はなかった。
須藤樹と一緒に帰る選択肢もあった。
でもしなかったのは、こうして火照った体と心を覚ますため。あるはいは単純に恥ずかしかったから。
黄瀬まどかを救うのはまるちぃ。
それは変わらないと思っていたけれど。
でも、あるいは、ご主人様である彼がもしかしたら――……。
まどかは自分の心の変容に戸惑った。
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