第28話 一番大切な宝物
梅雨の中休みだろうか。
限りなく黒に近い紺碧の夜空に光年先の星が煌めいている。
それらがなんという名前の星かは忘れたけれど、明日が晴天であることには違いない。
黄瀬さんは解けていた靴ひもを結び終えたのか、立ち上がる。
すると彼女は「昔、自分の靴紐を踏んで転んだことがあるんです。すごいダサいですよね」と顔に含羞を滲ませた。
どう反応したものかと戸惑い口ごもる僕は、黄瀬さんの脱線した話題とそのあとに訪れた沈黙の意味を悟る。
次に彼女が口を開くとき、その内容はいよいよ向こうのセカイについてのことになるのだろうと。
まるちぃはまるちぃ、黄瀬さんは黄瀬さんと明確な線引きをした状態で、僕はどう振る舞うのだろうか。
そして黄瀬さんはどう切り出すのだろうか。
唐揚げ弁当と一緒にお茶を買うのを忘れたのに気付いたとき、彼女が体の向きを僕のほうへと変えた。
コンビニの人工的な光源が黄瀬さんの右半身を照らす。
不自然な光のコントラストの中、それでも彼女のはっきりと動く唇は見えた。
「須藤さんは、まるちぃのこと好きですか?」
直球。
それでいて、全く予測もできなかった変化球。
つまり僕はそのボールを前にただ立ち尽くして、「は?」っとまぬけな一文字を歯の隙間から漏らすのみだった。
まるちぃと黄瀬さんを分離して考えているといっても、それは心の持ち方であり、実際には彼女達は同一人物である。
それを分かっていながら、まるちぃへの恋慕の情を白日の下に晒すなんてそんな――。
「答えてください。須藤さんは、まるちぃのこと好きですか?」
一歩前へと踏み出す黄瀬さんは、僕から視線を剥がそうとしない。
円らな瞳に宿る直向で迷いのない意思が、僕に逃げ道を与えない。
どうして彼女はこの場で僕にそれを聞くのだろうか。
疑問が横切ったりもしたけれど、僕がするべきはその理由を知ることじゃない。
彼女の問いに真摯に向き合うこと。
これしかないんだと思う。
どこかしら勇気を振り絞った感のある黄瀬さんを思えば、それは礼儀であり必然。
そうだ、何を照れることがある。
何を怖気づく必要がある。
まるちぃへの純粋な気持ちを素直に伝えればいいじゃないか。
黄瀬さんはそれを望んでいるのだから。
だから彼女は、《私》でもなく《私の演じる》でもなく、まるちぃのことが好きですかと問い掛けたのだから――。
「はい。僕はまるちぃのことが好きです」
舌から滑り出る真実の気持ち。
黄瀬さんの瞳孔が散大され、ひゅっと息を飲む声が聞こえた。
やがて彼女は、愁眉(しゅうび)を開くかのようにその息を吐き出すと、もう一度、僕に質問を投げかけた。
「まるちぃのどこが好きですか?」
好きだと伝えた以上、最早、胸に仕舞っておく必要もない。
僕はその全てを正確に伝えるために、心の揺動により言葉を奪いかねない黄瀬さんの顔から、すっと目を逸らした。
逸らしたさきの虚空に、僕は想い人を描く。
にゃんメイドの制服を着用した小さくて可愛いまるちぃ。
どうにも冴えないオタクな僕に、充実した日々を与えてくれる天使。
もしもキミに会えなかったら、僕はこうまで人生を色濃くできたとは思えない。
たった十六年のうちの更に六ヵ月という短い期間だけど、僕にとっては大切な宝物みたいなものだ。
その宝物だけど、このさきも増やしていっていいかな。
さきって言ったって永遠に死ぬまでずっとってわけじゃないよ。
いつの日か、キミがにゃんメイドでなくなることくらい分かってるから。
遠い未来、あるいは近い将来だとしても、当然の成り行きだと覚悟もしているから。
だからせめて。
せめてそのときが来るまで、キミは僕のまるちぃでいてください。
一月二十二日の雪空の下で見せてくれた、無邪気で健気で数パーセントの庇護欲を掻き立てられるような、そんな笑顔と共に。
描かれたまるちぃが頷く。
僕は彼女に吐露した。
キミを好きなった、好きを重ねて大好きになったその振る舞いを、仕草を、表情を、言葉を、全てを――。
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