第23話 穴倉の囚われ人


 8


 車内にまで響くエンジン排気音がどこまでも耳障りだ。

 車高が極端に下がっているからなのか乗り心地も悪くて、ちょっとした凹凸の路面情報を吸い上げては、お尻に不快な刺激を与えてくる。

 車の中に充満している芳香剤の臭いも香しいには程遠く、鼻をつくような下品な臭気にまどかは何度も眉をしかめた。

 

 本来この車は、ここまで気分の悪い乗り物ではなかったのだと思う。

 持ち主の品位。

 それがこの車をこんなにも趣味の悪いものへと変えたのだ。


 その持ち主の手がカーオーディオのボタンへと伸びる。

 突如、無遠慮に鼓膜を蹂躙してくる大音量の音楽。

 国外のラップだろうか、わめき散らすような外人の声はノイズにしか聞こえない。

 これを聴き続けるなら、まだエンジン排気音のほうがマシだとまどかは思った。


 信号で止まったところで歩行者の視線が車へと集まる。

 開いている窓から響く音楽に、何事だと思っての反応だろう。

 こちらを見ている人の視線が運転手である高倉に、そして助手席に座るまどかのほうへと移る。

 まどかはその白眼視めいた視線から逃れるように下を向いた。


「めっちゃ見られてるぜ、この車」


 高倉が得意げな声を出す。

 それは多分、自分に対して言ったのだと思って、まどかはこくりと頷いた。

 

 別に音がうるさいから見ているだけ。

 改造によって品性を排除された車をかっこいいと思って眺めているわけじゃない。

 本当はそう口にしたかったが、もちろん声に変換することはなかった。

 ただ、別のことははっきりと言わなければならない。

 

 ――自分はずっと穴倉に入った囚われ人だった。

 穴倉に入った状態で視界を奪われた、不自由で哀れな囚われ人だ。

 入口は塞がれていないから物理的な監禁ではないのかもしれない。

 しかし結局、何も見えなければ、肉体は純粋な自由を手に入れることなどできないのだ。

 だからまどかは穴倉の中に囚われている。


 違う。


 目は自分で閉じていた。

 穴倉には自分で入っていった。

 お父さんがいなくなったあの日からずっと。

 いつだって瞳を開けて穴倉から出ていけたというのに、まどかはそうしなかったのだ。


 時が経てば経つほどにまどかは深く、澱み、凍えるような最奥まで進んでいき、いつしか目を開いても墨汁のような黒しか存在しないところまできていた。

 それでも戻ろうと思えば戻れたのだと思う。

 本当に小さい、でも手を差し伸べてくれる《もう一人の自分》が穴倉の入口に見えたから。


 逃げ出した先の深淵のような穴倉に居場所なんてない。

 当たり前のことに気づいたまどかは、その《もう一人の自分》の元へと向かった。

 全身を痛めつける冷気と不安を増長させる暗黒。


 ――怖かった。

 それでも前に進めたのは、《もう一人の自分》の暖かさと光が恋しかったからだ。

 だからまどかは諦めなかった。

 自分を救ってくれる《もう一人の自分》、まるちぃと重なりたくて。

 溶け合って、自分という存在を確固たる一つのアイデンティティとして成立させたくて。


 なのに。

 纏わりつく闇がそうはさせてくれなかった。

 高倉という、瘴気を纏った最悪の闇。

 あの日、頬を腫らしたまどかが見たのは、まどかに暴力をふるった男を殴りつける高倉だった。


『もう大丈夫。ほら、立てるか?』


 自分はどうしようもなく愚かだったのだと思う。

 捨て鉢という殻から出ようというときに、優しく声を掛けてきた高倉に僅かでも心が動いてしまったのだから。

 あれ以来、まどかは歩みは鈍重になった。

 歩いても歩いても、まるちぃとの距離が縮んでいるような気がしなかった。


 結局、まどかは囚われ人のままだった。

 このままでは歩くのも儘ならなくなって、穴倉の中で死んでしまうかもしれない。

 何度もそう思っては胸が苦しくなり、発狂しそうになって、直前でなんとか我慢して。


 でももう、我慢はしたくない。

 まどかの居場所はここじゃないから。

 穴倉の先でまるちぃが待ってくれているから。

 まるちぃと一つになって、開けた未来に心を思いっきり開放したいから。


 私は本当の自分を取り戻したい。


 車が止まる。

 いつの間にか、まどかの住むアパート《ひだまりハイム》に着いていた。

 やかましかった音楽が止まり、重低音の断続的な炸裂音が強調される。

 そんなエンジン排気音が鳴りを潜めると、「ドア、気をつけろよ」と高倉の声が聞こえた。

 まどかはアパートの壁に当たらないようにゆっくりとドアを開けて、外へと出る。


 同時に運転席から出てくる高倉。

 高倉はドアをロックし車全体を満足そうに眺めたあと、アパートの入口へ向かう。


 呼吸が少し苦しい。

 まどかは深呼吸をする。

 早く来いとまどかを呼ぶ高倉。

 ゴミ集積所の前で立ち止まったまどかは動かない。

 訝しげな表情を浮かべた高倉は、瞬時にいら立ちのそれへと変貌させると、「何やってんだよ、早く来いよっ」と声を荒げる。


 それでもまどかは動かない。

 一歩でも足を前に出したら決意が消散してしまうから。


 睨みつけながら威圧的に迫ってくる高倉。

 彼は「来いっつってんだろ」と怒鳴り声を上げると、まどかの二の腕を乱暴につかむ。

 反射的に振りほどくまどか。

 それは自分でも驚くほどの拒否反応で、まどかは感情の赴くままに胸の内を吐露した。


「もう終わりにしてほしい。穴倉から抜け出すためにも私を開放してほしい」


 振りほどかれた高倉の手。

 その手は一旦ピタリと止まるとゆっくりと動き、彼の頭を掻き始めた。


「はい? 終わりにするって何が? 穴倉から抜けだすとか何言ってんの、お前」


 心底、意味が分からないといった体で、まどかを見下ろす高倉。

 まどかは顔を伏せると、抽象的だったその表現を直接的なものへと変える。


「私と別れてください。お願いします」


 沈黙。

 それは、処理能力の追い付かない高倉の脳の働きを表しているのかもしれない。

 でもすぐに理解するだろう。

 まどかの発した言葉の意味に。そのとき、一体彼は――


「まどか」


 一切の感情的な高ぶりを感じさせない平坦な呼びかけ。

 そこにぞわりとする違和感を覚えつつも、まどかは顔を上げる。


 刹那、右頬から甲高い音が聞こえて視界が左に飛んだ。

 左半身がゴミ集積所へとぶつかる。

 体勢を崩したまどかは、そのまま地面へと倒れた。

 散乱する手提げバッグの中身が視界の隅に見えたとき、高倉の顔がまどかの目の前に迫ってきた。


「お前はずっと俺のもん。俺の所有物。ね? 所有物が勝手に持ち主から去ろうとしちゃいけないよね」


 高倉の凍てつくような冷たい双眸が全身を切り刻む。

 まどかの勇気は針で刺された風船のように、あっけなく破裂した。

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