第21話 それはドラマでも観たことのないような
7
「おはようございます」
僕はスーパーマーケットの従業員休憩室へ入るなり挨拶をする。
何時だろうが、誰もいなかろうが、入るときは《おはようございます》の挨拶が決まりだった。
従業員休憩室には男が二人いた。
奥でテーブルを挟んで対面するように座っていた二人が僕を見る。
金髪のロン毛は滝。
ならばもう一人の盛った無造作ヘアを指で弄っている男は誰だろうか。
その外見、及び滝と一緒にいることからDQNだと思うけど、初めて見る顔だった。新しく入ったアルバイトなのだろう。
「お、須藤君じゃん。元気?」
滝がいちいち話し掛けてくる。
お前がいるから元気なくなったよ。
と胸中で毒づいたのち、僕は「まあ、それなりに」と答えてやる。
更なる会話など毛頭する気もないので、手前のテーブルへと座り狸寝入りを実行。
それは話しかけるなというアピール。
そのアピールの七十五パーセントは滝に無視されるのだけど、今日はどうだろうか。
「ほら、あれが例のアニメオタクだよ」
微かに聞こえてくる滝の声。
どうやら一緒のテーブルに座っている男に対して言っているようだ。
十中八九、アニメオタクとは僕のことだろうけど、それを教えてどうするつもりなのだろうか。
嫌な予感がする。
その後も滝ともう一人の男は会話を続けているようだけど、よく聞こえない。
ときおり小バカにしたような笑い声も聞こえてくるけれど、その対象が僕である可能性は、それこそ七十五パーセントを優に超えているだろう。
ふん、バカにしたければすればいい。その変わり絶対に話しかけるなよっ。
僕は声を荒げる。心の中で。
しかしそれが功を奏するわけもなく。
「須藤君さぁ。こいつが、ちょっと聞きたいことあるみたいなんだけどいい?」
滝の粘着的で不快な呼びかけが背中に届いた。
はぁと溜息を吐く。
どうせ、またアニメに関する問題か何かに違いない。
さっと振り向くのも従順に従っているかのようで癪である。
なので僕は面倒くさそうに、それこそ四倍スロー再生かのように後ろを振り向いた。
次の瞬間、僕の顔の横を何かが高速で通り過ぎていく。
甲高い音を上げたあと床を転がるコーヒーの缶。
僕が呆然としていると、「振り向くのおせーんだよ、タク野郎」と冷気を伴うような声が、DQN達の座る席から聞こえてきた。
それは滝ではなく無造作ヘアの男が発したものだった。
僕はぞっとする。
その冷徹な声、そして顔に当たるかもしれないことを承知でコーヒーの缶を投げてきたという、その暴挙に。
「みっちゃん怒らすとこえーから、すぐに振り向いておけよな」
忠告する滝の瞳に僅かに浮かぶ動揺の色。
それは、まさかここまでやるとは思わなかったという焦りのようにも見えた。
つまり、みっちゃんと呼ばれた男は滝以上にDQNレベルの高いやばい奴。
「分かった。で、何が知りたい、の?」
僕の声帯から惨めに思える程の震え声が出た。
その瞬間、あっけないほど簡単に僕はアルバイトを辞めることを決めた。
アルバイトを終えた僕は《ひだまりハイム》へと帰った。
エントランスでポストを確認すると、最近、近くに出店したパチンコ屋のちらしが一枚入っていた。
クシャクシャに丸めてポケットに入れると、メイン玄関ドアを開けて階段を上る。
パチンコなんてやる奴の気が知れない。
空気の悪い空間で銀色のボールの行く末に一喜一憂して、時間を大量に浪費した挙句、金を失って帰るとかバカなんじゃないかと思う。
たまに勝ったとしても全体の収支としては絶対にマイナスなわけで、やっぱりパチンコをやる奴はバカだ。
いや、ギャンブルにうつつを抜かす奴らは全員、頭が湧いているんだ。
お金の使い方っていうのを分かっていない。
そうだ、DQNもギャンブルをする奴も全員、死んじゃえばいいんだ。
――っ!
三階へと上り、廊下へと出た僕はそこで反射的に身を後退させた。
たたらを踏んで危うく倒れそうになったけど、なんとか態勢を保つ。
ざわめく胸が瞬時に動悸を発生させる。
僕は再びそっと廊下へと近づくと、廊下の奥を覗き見た。
やはりそうだ。
三〇五号室の前に、高校の制服姿の黄瀬さんがいた。
彼女のすぐ横では、先日この廊下で見かけた赤い髪のDQNが、その黄瀬さんを見下ろすようにして立っている。
この状況で自室へと向かうことはできない。
別に自分の部屋に戻るだけなのだけど、邪魔をしてはならないようなそんな雰囲気が漂っているのだ。
違う。それは都合のいい免罪符だ。
正直に言えば、事の成り行きを知りたい出歯亀みたいな自分を認めたくないだけなのだ。
僕は、これ以上はダメだというギリギリのところまで顔を出す。
何か話している二人。
当然ここまで声は聞こえないので、その内容は全く分からない。
でもその表情と所作が視認できれば、例えば感情を読み取ることだって可能だ。
そうなれば、その先の二人の関係性だって自ずと見えてくるかもし――
黄瀬さんが顔を上向きにして目をつむる。
赤い髪の男が黄瀬さんの両肩をつかんだ。
そのまま顔を近づけると、自分の口で黄瀬さんの口を塞ぐ。
肉食獣が餌を貪るように黄瀬さんの口を求め続けるDQN。
貪欲に、荒々しく蹂躙するかのようなその接吻は多分、十五秒くらい続いたのだと思う。
ドラマでも見たことのない濃厚すぎるキスだった。
それを見ている間、僕は地面がガラガラと音を立てて崩れ去っていくような感覚を覚えた。
何度か文章で読んだそのありきたりな例えそのものが、僕の足元で本当に発生したのだ。
どこかで。
あの日、赤髪の男が三〇五号室に訪問したとき、もしかしたら二人は付き合っているのではないかという予想はしていた。
でもどこかで。
黄瀬さんに限って、あんなバカ丸出しのクソDQNと交際しているなんてあり得ないと、鼻で笑って安心している自分もいた。
お前が知っているのは、まるちぃであって黄瀬さんではない。
お前の理想に反しないよう黄瀬さんが生きる必要なんてない。
お前が黄瀬さんを、まるちぃに重ねようとするのが全て悪い。
ボクの声が僕の心を激しく殴打する。
こんなにも胸が痛くなるのは初めてだった。
赤髪の男が黄瀬さんの髪をなでると、帰るのかこちらへと足を向ける。
咄嗟に顔を引っ込める僕は足音を立てずに二階へと降りた。
二階の廊下を半分くらい奥まで進んだところでスマートフォンを取り出して、画面を見つめる。
背中を向ける階段から粗暴な足音が聞こえ、それは階下へと消えていった。
なのに僕はスマートフォンの画面から目を逸らすことができなかった。
こじらせた童貞オタクの末路には相応しい、かな。
待ち受け画面のアールゼットは答えてはくれなかった。
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