第16話 オトウサン
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となりの三〇六号室でドアの閉まる音が聞こえる。
どうやら、あの人が帰宅したようだ。
まどかは壁にそっと耳を近づけると息を殺す。
聞こえてくる僅かな生活音。
とりたてて興味を惹かれるものもなく、まどかは妙な背徳感を覚えたこともあって、聞き耳を止めた。
まどかはニットワンピースを脱ぎ捨てると、下着のままでベッドに座る。
俯けば、小ぶりな肢体にはやや大きめの胸が目に入る。
まどかはその胸を隠すように足を折って膝を抱えると、その膝に額を付けた。
考え事をするとき、まどかはいつもこうしていた。
須藤樹。
それが彼のフルネームだということは、入会証に書かれた名前で知っていた。
彼と出会ったのは、今から約五カ月前の一月二十二日。
冬に入って初めて降った雪の日だからよく覚えている。
あの雪の日以来、くしゃみがきっかけで知り合ったそのときから、須藤樹は必ず毎週土曜に《にくきゅーフレンズ》に来てくれるようになった。
――多分、まるちぃに会うために。
まるちぃを見る須藤樹の目に情欲の色はなくて、まるちぃを自分勝手に占有しようともしない。
あらゆるシーンでまるちぃへの好意を隠そうとはしないのだが、言動のどちらでも絶対に一線を超えようとはしない紳士的なご主人様。
その徹底ぶりがたまに滑稽に見えるほど、三〇六号室の須藤樹はいい人だった。
そんな彼が引っ越し先の隣人だと知ったあのとき、まどかは本当に驚いた。
それはまるで、マンガやドラマのような出来事だったから。
幸いにも窓から外を覗いている須藤樹がまどかに気づくことはなく、そのあとの引っ越しの挨拶のときは、まどかはすでに平常心を保つことができていた。
ただ、須藤樹はまどかを見てとても驚いていた。
それは、危うくまるちぃであることを話してしまおうかと思ったくらいだった。
今考えれば、ゾッとするしかない。
本当に口に出さなくて良かった。
その須藤樹が今日、まどかを助けてくれた。
乙女ゲームだったら絶対にありえない、ヒーローらしさ皆無の方法で。
しかしその恰好悪い助け方を、まどかは握られた手を見つめながら彼らしいなと思ってもいた。
逃げたあと、まどかは須藤樹と会話をした。
ゴミ箱の前でのときと同様に、まるちぃではなく黄瀬まどかとして。
須藤樹にも超えてはいけない一線があるなら、まどかにとってはこれがそうなのだ。
だから須藤樹には、まるちぃはまるちぃという認識でいてほしい。
黄瀬まどかという人間を極力重ねてほしくなかった。
これからも黄瀬まどかの状態では《にくきゅーフレンズ》のことに触れようとはしないし、須藤樹には隣人というスタンスでしか接しないつもりだ。
だって、黄瀬まどかは穢れているから。
お父さんが出て行ったあの日からずっと――。
自分でも驚くほどの空虚な心が、ひたすら辛かった。
がらんどうになった心の層は薄く脆く、いとも簡単にヒビが入った。
割れて崩れて深淵へと流されていった心は、それでもお父さんとの思い出だけを元ある場所に残してくれた。
でもそこに鮮やかな色はなくて、日に日に色あせていった。
母親との二人っきりの日常に侵食されて、瞬く間に。
このままでは消えてしまう。
大好きだったお父さんの
逞しさが、
優しさが、
笑顔が、
匂いが、
声が、
何度も頭を撫でてくれたあの手のぬくもりが。
色を取り戻さなくてはらない。
多大なる焦燥感がまどかの耳元で進言する。
オトウサン ヲ モトメレバイイ。
――と。
まともじゃない精神状態だったのだと思う。
まどかはインターネットの出会い系サイトでオトウサンを求めて、二回りも年上の男性と出会った。
お父さんとは似ても似つかぬオトウサン。
それは分かっていたはずなのに、まどかはその人にお父さんを求めた。
縋るように。
懇願するように。
だからその人がホテルに行こうと口にしたときも、断ることができなかった。
お父さんがそんなことを求めるはずもないのに、ここで拒否したらオトウサンがいなくなってしまうと思って。
まどかはその日、純潔を失った。
そこになんの感慨もない。
ただ、頭をなでてくれるオトウサンのその行為が嬉しくて、その後も何度もオトウサンと会ってはオトウサンの欲しいものを与えた。
オトウサンがお父さんにはなり得ないと分かっていながら、まどかは拒むことをしなかった。
行為のあとに撫でてくれるだけでよくなっていたのだ。
なのにオトウサンはいつの日か、まどかの前から消えた。
理由は分からないが、飽きたのだろうとまどかは思った。
その瞬間、まどかは自分がいかに愚かなことをしていたのか気づいて、一晩中ベッドの上で慟哭の声を上げた。
廊下に母親の気配を感じたが、ノックをしてくることもなかった。
身も心も穢れてしまった自分は、もう以前の黄瀬まどかに戻ることはできない。
大げさではなく人生に諦めを感じたまどかはその後、何人かの男と関係を持った。
黄瀬まどかなんてもうどうなってもいいという、そんな捨て鉢。
相手にお父さんを求めることもない。
ただ、言いようのない寂しさを紛らわせるためにまどかは男達に捧げていた。
生きていることに価値も意味もない。
――だから。
死をも意識していたまどかが彼女に出会ったのは、神様のきまぐれな思し召しだったのかもしれない。
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