第4話 三〇五号室
※
再婚の話を聞いたとき、まどかの心はさざ波すら立たなかったような気がする。
お父さんと離婚したとき、そんな予感はあったから。
いつだってあの人には別の男の匂いが染みついていたから。
隠す気なんてない、まるで見せつけるかのような母親の仕草と言動に、お父さんはいつも苦笑で返していた。
自分も過ちを犯したのだからしょうがないといった、そんな諦め。
そう、まどかはそのお父さんの姿を見たときから覚悟していた。
この家庭は崩壊する。
そのとき自分の居場所はなくなるのだと。
家を明け渡すようにしてお父さんが出ていったとき、母親は声を上げて嗤った。
それはとてもおぞましくて、今でも思い出すと恐怖を覚えるほどだ。
そんな母親と一緒にいたくはない。
だから居場所なんて自分から放棄したかった。
でも放棄するまでもなく、まどかの居場所は勝手になくなった。
母親が一人暮らしを提案してきたのだ。
やけに優しかった母親の意図は分かる。
新しい男と二人だけで人生を歩みたかったのだろう。
そんな母親のライフプランに、年頃のまどかは色々な意味で邪魔だったのだ。
母親は、保証人になり家賃も出すと言った。
元々家は出るつもりであったし条件も悪くないので、まどかは素直に母親の提案を受け入れた。
――六月十日、日曜日。
まどかの住処は《ひだまりハイム》の三〇五号室となる。
居場所ではない。ただの住処。
まどかに纏わりつく闇は未だ消えてはくれない。
2
朝からやけに騒がしいなとは思っていた。
路上駐車していた引っ越し業者が去っていくのが窓から見えたとき、その騒がしさに僕は合点がいった。
空き部屋だった、となりの三〇五号室に誰かが引っ越してきたのだ。
音楽を大音量で聞くような奴じゃなければいいんだけど……。
僕は早速、騒音トラブルを心配する。
前に住んでいたおじさんは孤独死でもしているんじゃないかと思うほど静かだったけど、今度もそんな模範的な住人だとは限らない。
他人の迷惑などお構いなしのクソDQNの可能性だってあるのだ。
僕はネットゲームを一時中断してヘッドフォンを耳から外すと、ベッドの上に投げていたスマートフォンを手に取る。
とりあえず、管理人でもある父親にどういった人物が引っ越してきたのか聞いてみようと思ったのだ。
《ひだまりハイム》は、地主である父親が所有している物件である。
その事実を小学生時に知ったときは、家はお金持ちなんだと漠然と思ったものだ。
事あるごとに、父親が「アパート収入だけで暮らしていける」みたいなことを口走っていたけれど、《三階建てで十二部屋、家賃五万八千円でほぼ満室》が二棟となれば実際そうなのだろう。
近隣アパートと比べると若干家賃が高いけれど、オートロック、防犯カメラ、IH、WiFiを完備、且つスタイリッシュな内外装を考えれば、相応と言えるかもしれない。
ちなみに僕は、角部屋である三〇六号室に住んでいた。
いや、父親の命令で住まわされていた。
その理由は自立を促すため――というのは名目で、実際は草むしりやゴミ拾いなどのアパートの清掃、及び住人の素行確認というなんとも後ろ暗い理由からだった。
素行確認とは、騒音や不快な臭いを発生させていないか、隠れて犬猫を飼っていないか、ゴミの分別はできているかなどの、要は住人のモラルのチェック。
最初それを聞かされたときは、そんな面倒なことまっぴらごめんでやってられるかと思った。
でも、幸いにも住人はモラルの高い住人ばかりで、一ヵ月もしないうちに素行確認業務は取り敢えず止めていいと父親に言われた。
よって今の僕の役割は、週に一度の清掃業務だけである。
――あれ、お父さんからLINEがきてる。
このタイミングのよさから内容はおそらく隣人についてのことだろう。
電話をする手間が省けた。僕はタップしてそのメールを読む。
その内容と言えば、今日の朝、三〇五号室に新しい入居者が来るので宜しくという簡素なものだった。
何が宜しくなのか分からないけれど、例の素行確認だと解釈する僕。
するとまた父親からLINEが来た。
そこには【手を出すなよ(笑)】と書かれていた。
「手を出すな……ってなんだよ。しかもいい年して、かっこ笑いとか」
呟く僕がその文面の意味を解釈しようとしたとき、インターホンが鳴った。
国営放送の受信料も払っているし、ここ最近通販で物も頼んでいない。
では一体誰なのかと思い浮かべれば、新聞や宗教の勧誘員しか出てこなかった。
いつものように無視すればいいのだけど、別の可能性が脳裏を過る。
となりに越してきた人かな。
三〇五号室の人の挨拶だとすれば無下に扱うことはできない。取り敢えず覗き穴で確認して判断はそれからだろう。
僕は忍び足で玄関へ向かうと、覗き穴から相手を確認した。
若い女性。
若干、曇っている覗き穴、そしてやけに遠くに立っていることもあり、その人物のことで言えるのはそれだけだ。
胸の前に両手で何かを抱えているけれど、挨拶の品のようにも見える。
やはり、三〇五号室に引っ越してきた人のようだ。
なぜだろう。
僕はこのとき、部屋の中から声を掛けることもなくドアを開けていた。
声を掛けて相手もこちらに話しかけてくれれば、もしかしたらその声で気づいたのかもしれない。
もしそうなったら例え緊張で心臓が爆発しそうでも、少しくらい寝ぐせを整えようという気になったと思う。
こんな野暮ったい恰好で応対なんてしなかったと思う。
いや、もしかしたら緊張し過ぎてドアを開けれなかった可能性も考えると、声を掛けずにドアを開けたのは正解だったのかもしれない。
ゆっくりとドアを開けるとまず、黒いタイツを履いたほっそりとした足が見えた。そしてすぐに太ももまである大きなTシャツが見えて――、
次に彼女の視線を受け止めたとき、僕は驚愕した。
多分、顔には出ていたと思う。
とてもじゃないけれど平静を装うなんてできなかったんだ。
そこにはまるちぃが立っていた。
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