???杯目 前に進むための、モスコミュール

◆3-1


 (こんなもんか……)


 山崎はエンターキーを押すと、眉間をもみほぐした。

 就業時間をとっくに過ぎたオフィスは、山崎一人だけ。窓の外はすでに濃紺に染まりつつあった。

 

 岡部に関するパワハラの報告書が、ようやくまとまった。他にやらねばならない業務はあったが、こればかりは誰かに任せることはできない。

 荒川の態度に怯え切った若手社員たちの表情を思い出す。メンバーにとったアンケートには、岡部に対する荒川の仕打ちの数々が事細かに書き連ねられていた。


 これだけ「証拠」があれば充分だ。しかし……。


 山崎が思惑を巡らせていると、ギ、とオフィスのドアが開いた。


 「おや主任でしたか。遅くまでご苦労なこって」

 「荒川さん……、お疲れ様です」

 荒川は出張の後、直帰だったはずだ。わざわざなぜこんな時間に戻って来たのだろう。静まり返った部屋の中、コピー機の無機質な音だけが聞こえる。


 「主任も毎日忙しそうですねえ。これだけ若手社員が多ければ育成も大変でしょう」

 荒川は自分のデスクに戻らず、黒いバッグを乱雑に近くの机に置いた。煩わしそうにネクタイを緩めながら、片方の眉を上げる。

 「皆意欲的で助かっていますよ」

 「そうですかねえ。ちょっと目が行き届いていない所もあるんじゃないですか? それとも、やっぱり主任みたいな優秀な方は出来損ないは眼中にないでしょうか」

 岡部の事か。荒川自らその事を口にするとは、一体どんな目的があるのか。

 「出来損ないなんて、うちのチームにはいませんが」

 山崎が毅然と返すと、荒川はわざとらしく溜息をつく。


 「岡部。あなたみたいな、部下の気持ちがわからない奴が上司だと大変だって、俺に泣きついてきましたよ」

 「はい……?」

 これは荒川のはったりなのか。しかし、面談の時に岡部が山崎に放った言葉は、嫌悪感が表れていた。それは山崎を嫌っての事なのか、荒川の件に触れてほしくなかった事なのか、わからない。


 「それに女性社員に色目使って気持ち悪いって。前の上司も女性だったんですよね? やっぱり昇進も色恋営業なんじゃないですか?」

 予想外の方向から振られて、一瞬眉間に皺が寄るのを感じた。

 どこから仕入れてきたのか、荒川はそんなことも知っているのか。先輩はそんな人じゃない。ふつふつと怒りがこみ上げる。

 「あの、」

 「これだから若いやつが主任になるのは勘弁なんだよ。美味しいとこだけ持っていきやがって」

 ドス、荒川の拳が机の上のバッグに降ろされる。その拍子に、デスクの上にあった紙が床へ落ちたが、本人は気にする素振りを見せずに荒い口調で続けた。


 「前の部署だって、足引っ張ってる奴の世話しただけなのに……、パワハラだのなんだのって……! 若い奴の根性が無いだけだろうが。俺ん時は何倍も痛い目見てきたっつうのに……!」

 「荒川さん、落ち着いてください」

 すると荒川はおもむろにバッグを乱暴につかむと、座っている山崎に向かって投げた。山崎は咄嗟に腕で受け止めるが、それがかえって荒川の怒りに拍車をかけたようだ。

 「クソ! いっつも涼しい顔しやがってよ! 支店でゆるゆる生きてきた野郎にはわからないだろうがな!! 俺は、俺は……!」

 オフィスに誰もいないのを良い事に、荒川は山崎に近づくとそのまま胸倉をつかんだ。ワイシャツの襟元が首を圧迫する。興奮しているのも相まって、荒川の力は加減を知らない。

 

 「荒川さん……、俺の事はどうしてくれたって構いません。まだまだ未熟なのも……痛い程わかってます」

 荒川の血管の浮き出た青白い腕を右手で掴んだ。

 「だけど……、あんたのやり方は間違ってる…!!」

 

 山崎は怯むことなく、目の前の荒川に強い眼差しを向ける。途端に、荒川の目の色が変わった。

 荒川が拳を握った。殴られる……! 山崎の体が反応するより早く、声が響き渡った。


 「や、やめてくださいっ……!!」

 

 

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