◆2-5

 ホテルの明かりを目指して、濡れた雪の上を歩く。雨混じりの雪は、二人の足跡を静かに消し去ってゆく。

 一つだけ点灯していたパネルを選び、エレベーターに乗るまでの間、先輩は何も言わなかった。 

 つないだ手が冷たくて、コートのポケットに一緒にしまい込む。


 安くさい装飾が施された扉を開ける。後ろ手でドアノブを押すと、唇を重ねた。しっとりと濡れた唇は甘く、そして柔らかい。舌を割り入れて中を探れば、彼女も控えめに自分のものを絡ませてきた。

 頬に手を寄せて、重ねて口づける。二人の温度が溶けて一緒になる頃、やっと唇を離した。

 華奢な眼鏡をゆっくりはずすと、潤んだ薄茶の瞳が自分を映していた。

 額を付けて、至近距離で彼女の瞳を覗き込む。「良いんですね?」そう続けようとした時、伏せた長いまつげが濡れているのに気が付いた。

 

 「せんぱ……」

 目尻から、涙が一筋流れる。

 「あ、あはは。ごめん、色々思い出しちゃったみたいだ! 駄目だな、私……」

 先輩はさっと涙をふくと、表情を隠すように俯きながらそっと離れた。


 「ありがとう、山崎。落ち込んでる私を励まそうとしてくれて」

 「帰ろう」彼女が寂し気に笑って言ったその言葉が、告白に対する答えだった。


 先輩と二人きりで飲んだのはそれが最初で最後だった。それから一年、彼女を忘れようと、他の女性と付き合ってみたりもしたが、「忘れるための恋愛」に未来がない事は明白であった。

 彼女が心の中から消えることは無い。恋愛を諦めて、これまで以上に仕事に精を出した。その結果、年度末の辞令で、昇進が決まった。


 先輩が婚約することを聞いたのも、ちょうどその頃だった。


***


 「来月籍を入れる事になったよ」

 昇進祝いで久しぶりに集まった三人。山崎を祝った後、少し言いにくそうに「実は私も報告があって……」と先輩は結婚の報告をしたのだった。


 「おめでとうございます」

 初めて耳にしたにも関わらず、自分でも驚くほど冷静に祝福の言葉が出た。同僚も身を乗り出して目を輝かせている。

 「お~! 先輩もついに……!」

 「ついにって、自分のとこはラブラブだからって先輩風か?」

 「痛い痛い! 最近腹出てきたんだから、つねらないでくださいよ!」

 「幸せ太りかあ~~!!」

 

 いつもの光景のはずが、自分だけ違う場所にいるようだった。


 「いやあ~この前の冬で付き合って一年でしたっけ? プロポーズもやっぱりその時ですか?」

 「はは……、まあそんな感じ」

 同僚がにやけ面で先輩に迫る。すると先輩はやや言葉を濁しながら山崎から視線をそらした。


 (一年前の冬……?)

 ちょうど先輩と二人で飲んで、ホテルへ行ったのも、そのくらいだった。

 ということは、その時からすでに良い人はいたのだろう。

 あの時、自分が衝動に任せてホテルへ連れ込んだのは、余計な事だったのかもしれない。きっと先輩も仲の良い後輩にあんな事を言われた手前、断れずに困っていたのかもしれない。


 同僚は山崎と先輩の間に何があったのか知らず、楽しそうに酒を飲んでいる。

 おそらく、山崎には話していない事もたくさん知っているのだろう。

 三人でいるのに、一人だけ置いていかれたようだった。

 二人はそれぞれ新しい道を進み始めている。自分は、己の道を進めているのだろうか。


 引き継ぎや引っ越しの手配で、あの日以来、先輩とはまともに言葉を交わさずに異動の日を迎えてしまった。

 北海道支店での最後の出勤日、喫煙所で一人煙を燻らせていると先輩が電子煙草片手に入って来た。あの夜以来、距離を取っているのか、自分がいる時は来なかったから少しだけ驚いた。

 この喫煙所も三人が良く集まる場所だったが、それも最後だ。


 先輩は電子煙草を吸わずにテーブルに置くと、こちらを見上げた。目を合わせる事が出来ずに視線を逸らせば、薬指にはダイヤが散りばめられた指輪がはめられていた。


 「山崎、私は……」

 今まで見た事もないような深刻な表情。なんとなく、言わんとしていることはわかるような気がした。


 「先輩、今までお世話になりました」

 それを遮るように、煙草を置いて、頭を下げる。「あの、山崎……」困惑する先輩の声を無視して、さらに続けた。

 「たくさんご迷惑をおかけしましたが、先輩が一から教えてくださったおかげで今の俺がいます。先輩がしてくれた事を、今度は俺が下の代に教えていきます」

 「……うん、頑張れ山崎。お前なら、大丈夫」


 最後に見たのは、先輩の泣きそうな笑顔。


 これでいい。あくまで自分と彼女は「先輩」と「弟子」の関係のまま。

 そう自分に言い聞かせたのに、北海道から離れた今も先輩は夢に出てくる。

 そして場面は必ずあの夜の出来事。


 この呪いにも似た夢は、自分の女々しくて気持ち悪い未練の証だ。

 煙草の煙があの日の喫煙所での別れを連想させるから、あれ以来スッパリ辞めた。


 いつかこの夢が止む日が来るだろうか。

 彼女との過去を断ち切って、前に進む時が。


 (もし、その時が来たなら、俺は……)


――――――――――――――――――――

*ギムレットのカクテル言葉:「遠い人を想う」「長いお別れ」

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