◆2-4
玲と会った日の晩、夢を見た。
北海道を離れてから、繰り返し見るようになった夢。
夢の中に映し出されるのはいつも必ず「あの夜」の光景。
***
「あいつが結婚かあ……。嬉しいような、寂しいような」
「いや~、本当に急でしたね」
一年前。
雨雪がしとしと降る、冬の初め。北海道の冬は長く厳しい。
いつもの居酒屋で、先輩ともつ鍋をつついていた。
冬になると必ず、彼女はもつ鍋と熱燗を欲する。すっかり冬の風物詩になっていたが、今年はなんだか物足りない。一つだけ席が少ないからだ。
『先輩、山崎。俺、結婚します』
いつもはへらへらしてばかりの同僚が、ある日先輩と山崎の前で改まって言った。
気が付けば薬指には真新しい指輪が光っている。冗談でない事は、指輪とその表情が証明していた。
今は夫婦の時間を大事にしたい。普段はひょうきんな彼が珍しく真面目な顔で言うので、それまで恒例だった三人の飲み会は解散になってしまった。
退勤後を持て余すことが多くなり、今日も一人飲み歩くかと会社を出た時、山崎は先輩に呼び止められたのだった。
「たまにはサシで飲もうぜ、愛弟子よ」
艶のあるブラウンのロングヘアは、暖かそうなカシミアのマフラーに収められている。はっきりとした二重瞼は淡い桜色のメイクが施され、細めのメタルフレームの眼鏡が良く似合っていた。
「まあ、いいですけど……」
「まあって~失礼なやつだなあ。嬉しいくせに~」
「近いですって」
肩を小突かれるとすぐ近くで、彼女が纏う花のような香りを感じた。それだけで、心臓を掴まれたそうな気持ちになる。
自分の気持ちを押し殺して、茶番に付き合えるようになったのは成長したと思う。
このひとは、誰にだってこの距離感なのだ。
その日は、久しぶりということもあってか、彼女のペースはいつもより早い。
熱燗をくい、と飲み干す頃には、すっかり頬が桃色に染まっていた。
「よし、二軒目行くか」
「大丈夫ですか? 顔、赤いですよ」
山崎が水を頼もうとした手を、遮るように掴まれる。
その手は、びっくりするくらい、氷のように冷たかった。
***
「いや~振られちゃったよ。仕事ばっかりで愛想つかされたのかなあ」
二軒目は、いつものバーだった。ここでギムレットを飲むのが先輩の定番だった。薄濁りの黄緑がライトに透かされて綺麗だ。
先輩の乾いた笑みが弱弱しく、山崎は膝の上で拳を握りしめた。
先輩には婚約間近と言われている程付き合いの長い恋人がいた。
相手は人事部の次期課長候補で、先輩は営業部のエース。お互い会社からの期待も厚く、将来を約束されていた二人だった。
「先輩は納得してるんですか」
先輩は黙ってかぶりを振る。
「自分より若くて可愛い子と一緒に頭下げられたら、もう何もできないよ……」
「彼女は何も悪くない。責任は全て自分にある」と、謝られた時、彼の隣にいたのは自分ではなく、可憐で小ぶりな花を思わせる若い女性。
彼の部下だというその女性は「何も知らずに言い寄った私が悪いんです。どうか彼を責めないであげてください」と言って、彼の制止を振り切り深く頭を下げた。
「有無を言わさずに、彼はもう私の物です。って言い切られたような気がしてさ……」
こういう時、女性を慰める術を身につけていなかった。どんな言葉をかけても、彼女の傷が治まる事がない気がして。
「ま、いいんだよ。私も仕事ばっかりで、家の事なんにもできないし。あういう子の方がしたたかに家の事も夫の事もしっかり仕切って上手くやれそう! 私は一生仕事人間でいいや~!」
山崎が何も言えずにいる隣で、先輩はわざとらしくあれこれまくし立てる。
自分が尊敬している先輩が深い傷を負っている姿を、今にも壊れそうな横顔を、黙って見ているのは耐えられなかった。
「聞くところによると、もう婚約して順調らしいよ。うん、めでたいめでたい!」
「先輩」
「なんだよ~山崎。独身仲間が増えて嬉しいだろ?」
「先輩!」
声を低く落として、グラスを持つ手を握った。
反動で、グラスの底に残ったわずかなギムレットが揺れる。
先輩はわずかに口を開いたまま、黙って山崎を見ていた。ライムのほろ苦い味がするその唇を、今すぐ奪ってしまいたい。
「俺が……、俺がいるじゃないですか」
「山崎……」
「俺があなたを支えますよ」
気づけば、まだ一度も呼んだことのない彼女の名を口にしていた。
「貴女が好きです。麗さん……」
麗と玲。同じ音の名を持つ女性が目の前に現れたのは、運命なのか、それとも神のいたずらか。
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