10-5
「へぐしっ!!」
続けざまにくしゃみが出る。オフィスに戻った後もくしゃみが止まらない玲は、内心嫌な予感がしていた。くしゃみをした後に襲ってくる寒気、止まらない鼻水。
単に倉庫の埃っぽさが原因だと思っていたが、これは……。
「吉井さん、もしかして風邪ですか?」
「大丈夫。ちょっとまだ鼻がむずむずして……」
タイミングよく、再びくしゃみ。背中にぞわっと広がる悪寒。
前の席からこちらを見つめる千田に笑顔で強がったが、徐々にその予感は確信に変わりつつある。
(絶対風邪だ……)
しかし、ちょうど悪い事に締め切りが同時期に重なっている仕事が何件かあった。こういう時に限って立て込む。神がいるとしたら、胡坐をかきながら下卑た笑みで、慌てふためく人間の様子をつまみに缶ビールでも呷っているのだろう。
明日は土曜日、休日だ。今日片づけてしまえば明日はゆっくり休める。裏を返せば、今日ある程度進めておかなければ二日の遅れが出てしまう。
課長に急遽頼まれた倉庫の整理に思いの外時間を取られてしまった。
(なんとしてでも今日、行けるところまで行かねば……)
給湯室で新しいコーヒーを淹れていると、沢渡が音もなく近づいてきた。
細めにはっきりと描かれた眉が、玲の姿をとらえると上がり気味になる。寒気とはまた違う嫌な感じが背中を冷たく流れた。玲は思わず身構える。
「お、お疲れ様です……」
「吉井さん、今いっぱいいっぱいになってるでしょ」
「え……」
玲が言葉を詰まらせると、沢渡はさらに続けた。沢渡はいつも余計な前置きや遠回しな表現をせずに、要点のみを的確に玲に伝える。
「千田さんも上手く使って回さないと。教育だと思って。じゃないと潰れるわよ」
「はい……」
でも、と口から出かけて引っ込める。今玲を悩ませているのは課長から頼まれたデータ整理の仕事だ。千田には玲が主担当で進めている仕事を手伝ってもらっている。そもそも、課長からの依頼だって、先輩たちのようにうまくかわせばよかったのだ。それを引き受けた自分にも責任がある。
なにより、これ以上千田の世話になるわけにはいかない。
上の言いなりになって自分の仕事もまともにこなせない、かっこ悪い先輩だなんて、思われるわけにはいかないのだ。千田が自分の事を尊敬してくれている、その気持ちを裏切りたくはない。
定時近くになって、千田が「吉井さん、残るんですか……?」と眉根を寄せて聞いてきた。
玲はパソコンに向かいながら、そんな千田には目もくれず「うん。ちょっと今のうちに済ませておきたくて。色々」と早口で返す。頭の中が目の前の仕事の事でいっぱいだった。
「吉井さん、風邪ぎみじゃないですか? あんまり無理は……」
「明日休みだから、大丈夫」
金曜日ということもあり、沢渡や他の面々は次々とオフィスを出ていく。残業するのは玲くらいだ。残業の申請をした玲を、沢渡は遠くから何か言いたそうな目で見ていたが、特に触れずに帰ってしまった。
いつもは二つ返事でOKを出す課長も、玲の調子を見て珍しく「そんなに根詰めなくてもいいよ」とやんわり言っていたが、それがかえって玲をムキにしてしまった。
(これくらい今までやってきたし、いっぱいいっぱいだなんて思われたくない……)
沢渡に言われた事が図星で、悔しくてたまらなかった。それが玲を頑なにさせ、冷静さを失わせる。
(いつまでも沢渡さんに言われてるようじゃダメだ……悔しい)
心の中に、どす黒く暗雲が広がっていく。体調が万全でないことも相まって、立ち止まればわかることにも気が付かず、ただ目の前の事だけに意識が向いてしまう。
千田はしばらく玲の様子を見ていたが、もう振り返らないことを悟ると、帰り支度を始めた。
「吉井さん、あの」
玲はパソコンの画面に集中している。それでも、千田は続けた。
「頼りないかもしれないですけど、もっと頼って下さい」
そう告げると、今にも泣き出しそうな、それでいて悔しそうな、複雑な表情でオフィスを出て行った。
千田が帰った事に気が付いたのは、それからしばらく経った後だった。
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