忠犬の独白


 こんなつもりじゃなかった。

 人生は思い通りにならないことばかりだ。そして自分は毎回大事な時に限ってヘマをしてしまう。


 『好きです』


 あの朝、自分以外の人が家にいる音でぼんやりと目を覚ました。キッチンからおいしそうな匂いが流れてくる。かすかに聞こえる少し音程が外れた鼻歌。紬とは違う、落ち着いたアルトの声。


 (そうだ、昨夜吉井さんが……)


 テンポがずれた彼女の鼻歌は、普段は冷静で厳しい姿とちぐはぐで、なんだか心が甘酸っぱい気持ちでいっぱいになった。彼女の歌に耳をすませていると、心が落ち着いて、再びゆっくりとまどろみの海に沈んでいく。


***


 ずっと憧れていた彼女と同じ部署になれた春、浮かれていたのは一瞬で、目の前に積まれた大量の仕事に忙殺されていた。

 元々部署の人数が少ないこともあるけれど、十人いれば十人が同じだけの仕事をするとは限らない。上手に逃げて負担を減らす人、てきぱきと大量の仕事を次々こなしていく人、仕事の仕方は様々だ。

 彼女は後者。真面目で上司からの信用も厚い。その反面、前者がずるをしたしわ寄せで大変な思いをしているようだった。


 非力な自分だけど、彼女を助けたい。

 最初はその一心でとにかく目の前の仕事を一生懸命覚えていった。彼女に厳しく叱られて肩を落として帰った日も、些細な失敗で迷惑をかけて悔しかった日も、その気持ちだけは燃え尽きることは無かった。


 徐々に仕事にも慣れ、全体の流れがつかめてくると、周りにも目を向けれるようになってきた。そして同じように、前の席にいる彼女の様子も。

 肘をついてこめかみを軽く叩いているのは、きっと仕事が立て込んで余裕がない時。まずは自分の仕事に優先順位をつけて、重要かつ緊急度の高い要件は終わらせておく。

 彼女を助けるために、自分の仕事をしっかりこなしておくのは大前提だ。


 「吉井さん、何か手伝えることはありますか?」


 眉根を寄せて考え込んでいた彼女が、顔を上げる。厳しい表情が、少し崩れて戸惑いを見せる。彼女の纏っている鉄の鎧は、最強なんだと思った。だけど、そうじゃない。その鎧は頑丈だけど重くて、毎日装備しているのはきっと大変なはず。


 大丈夫。僕を頼ってください。

 あなたの背中は、まだまだ遠いけど、必死に走って追いつきます。


***


 「……さーん! 起きて!」

 「んん……」


 真っ暗闇の中からまばゆい光と共に、自分を呼ぶ声が聞こえる。

 もう起きないと。まどろみの中で、もがいて、もがいて、やっと目を開ける。

 すると、そこには。


 「あ、千田さんおはよう」


 真っ白なシンプルな皿の上に出来立ての湯気を立てて黄色いふくらみが見える。バターの香りがするオムレツ、こんがり焼いたウインナー、彩り鮮やかなサラダ。

 そして目の前にはお皿を持った彼女がやれやれと言いたげに微笑んでいる。


 最初は、夢の続きだと思った。高嶺の花みたいな存在だった彼女が、朝ごはんを準備して、自分を起こしに来てくれる。

 こんな未来は、絶対ないけれど、もし、もし貴方と一緒に生活を営む日が来たらこんな朝なんだろうか。


 それって、すごい素敵だな、と単純に思った。


 その時、自分の中に暖かい何かが芽生えるのを感じた。

 憧れ、尊敬、支えたい気持ち、どれとも違う。出来立てのいちごのジャムを指で梳くって、一口舐めた時のような。甘酸っぱくて、これからどうやって使おうと色々想像して心が躍るような。


 初めての恋だった。だから、心の奥底に大切に秘めておこうと思った。

 だけど、もし何年かして、僕が彼女の隣に並んで走れるくらいになったら、その時は。


 そう思っていたのに。口から出た言葉は――。


 言ってしまって、そこでまどろみからはっきりと現実に引き戻された。

 目の前でアーモンド形の瞳が、ぱちくり瞬きを繰り返す。


 ごめんなさい吉井さん、貴方を困らせるつもりはなかったんです。


 

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