6-5


 恋愛系のマンガをダウンロードして数分後……。

 玲はスマホを凝視したまま、彫刻の如く固まっていた。


 『夜の研修、始めるぞ……』

 『えっ……やだ、先輩、こんなところで』

 『ふふ、もう逃がすかよ……』


 そう、玲が主人公が丁度自分くらいの年代だと思い購入した漫画は。


 『先輩っ……!』

 『俺が一からOJTしてやるよ……』

 

 人気のない夜のオフィスで大人の男女が、絡み合っている。それはもう、濃厚に。


 「んなっ……?!」


 実に過激なオフィスラブのマンガであった。表紙はオフィスで頑張る女主人公とクールな先輩のイラストだけだったため、玲は気が付かなかった。勢いで購入したため、あらすじもろくに読んでいなかったのだ。


 (なんたる失態……!!)


 スマートフォンをぶんなげたくなる衝動を抑え、そっと画面を閉じた。


***


 翌日。若干寝不足ぎみではあるものの、なんとか出社した玲がいつものようにパソコンに向かっていると、奥の席から沢渡が真っすぐ自分の席へ向かってくるのが見えた。

 いつものように朱色の口紅をキリっと引き、長い前髪を真ん中で分けた黒髪のボブカットが歩くたびに左右に揺れている。


 「吉井さん、ちょっと」


 そして軽く給湯室を指さすと、コーヒーカップを持ってさっさと先に行ってしまう。コッコッ、と沢渡のヒールの音が遠くなっていく。


 (え? 何、私なんかしたかな!?)


 別名「給湯室の主」沢渡は、ゴシップがあると同年代のおばさま達と給湯室で井戸端会議をしている。玲はなるべく面倒事を避けたいので付き合いはほどほどにしていたのだが、自分が指名で呼ばれるとなるとなにか重大な失態でもおかしたのかとドキっとしてしまう。


 とりあえず玲も、コーヒーをいれなおす体を装って給湯室へ続いた。


 恐る恐る、彼女の聖域に足を踏み入れると、手短に要件だけ告げられる。


 「予算のファイルのデータ管理、吉井さんだったよね」

 「はい」

 「ファイル、保護してなかったでしょ。多分米村さんが入力したせいで色々ぐちゃぐちゃになってるわよ」

 「え!?」


 細くはっきりと描かれた眉が吊り上がっている。玲は状況が飲み込めず、瞬きを繰り返した。


 部署のそれぞれの項目ごとの予算や支出額をまとめたExcelの表がある。年度初めに決められた金額、予算に対してどのくらい使ったかを管理するものである。部署の全員が見れる共有フォルダに置き、担当ごとに定期的に入力してもらう。ファイル自体の管理等は玲が担当になっていた。

 Excelの表の中には式が組み込まれており、実際に使った金額等を入力するだけで、自動的に計算結果が出る仕組みになっていたが。


 「米村さん、本当にああいうの疎いから油断しちゃだめよ!」

 「は、はい」

 「私も前にひな型のデータぐちゃぐちゃにされて大変だったのよ。変にいじれないように保護しないと」


 玲は頭からサアっと血の気が引くのを感じた。予算のデータはちょうど明日課長を通して部長へ提出しなければいけないものだった。


 「私も手伝いたいけど、午後から出張でそのまま直帰だから。どうにもならなかったら早めに課長に言いなさいよ」


 すると沢渡はカップにコーヒーを注ぐと颯爽と給湯室を出て行ってしまった。

 残された玲は、必死にぐちゃぐちゃの脳内を整理する。


 (まずい、明後日ある業者の打ち合わせの資料も仕上げなきゃないのに)


 玲はカップを握りしめたまま、給湯室に立ち尽くした。

 まず、何から手をつけるか、問題が大きくない事を祈った。

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