第5話 ピアノのフジサキ(前編)
窓際の席に座っているアオの短い髪を、風が静かに揺らしている。
あと一週間もすれば大型連休に入るこの季節、今日のように過ごしやすい気温の日は貴重だ。三寒四温とは言うものの、東京の夏はいきなりやってくる。アオは、あまり夏が好きではなかった。
「つまりですね、この人と人との間に存在する関係を、構造として捉えることが――」
教壇に立っている教授が棒読みで話している講義内容を、さらっと聞き流す。それなりに興味を持って入った学科ではあるが、「――概論」と題された講義は面白味に欠けるということに、気づいてしまったのだ。
教授も現在進行形で研究をしている身なのだと、聞いたことがある。それなら本人も面白いと思うようなことを話せばいいのに、というのがアオの正直な感想だった。
ともかくそういうわけで、アオは講義とはまったく関係のないことを考えていた。
(トウカ……。彼女は、すごい詩人だわ)
昨日見た、サー室に置かれたポエムノート。あれからずっと、アオの頭はトウカの言葉で埋め尽くされていた。
初めてだったのだ。言葉だけで、あんなにも「うたいたい」という衝動に駆られたのは。ほんとうの、綺麗な言葉だ、とアオは思った。知らず、シャーペンを握る手がリズムをとり始める。
三限の講義が終わると、アオは足早に三号棟へ向かった。今日の講義は終わりだ。先程から頭をぐわんぐわんと揺らしている旋律を、早く吐き出してしまいたかった。
階段を降り、「防音ルームB」と書かれた扉を開ける。アオはふぅ、と息を吐いた。中には誰もいない。早速、と息を吸ったところで、慌てたように首を振る。
(駄目よ。誰かがいきなり入ってこないとも限らないわ)
それなら、とサー室内を見回すと、すぐ目にとまったピアノ。ギッと音を立てて鍵盤蓋を持ち上げる。それからキーカバーをくるくると丸めて譜面台の上に置いた。
ターン。ターン。
何音か人差し指で確かめてから、椅子に座る。両手は、すっと鍵盤へ。
初めは脳内の旋律をなぞるように、それから、流れるように。いつの間にか、左手はコードを奏でていて。
旋律に合わせて、トウカの言葉が駆け巡る。
まるで、空を飛んでいるかのような気分だった。アオは目を瞑り、どこまでも深い青色をした、広大な空を想像する。雲ひとつない、まっさらな空だ。
そこはとても心地よくて、孤独で。それでも期待に胸が高鳴るような。
「……あおい」
と、いつの間にか誰かが来ていたらしい。呼ばれたアオがぱっと振り向くと、扉の手前にはフジサキが立っていた。
(……意外ね。いきなり女の子の名前を呼び捨てにする風には、見えないのだけれど)
そんな失礼なことを考えた直後、そういえばそういうサークルだったかも、と思い直す。
「えーと……。藤崎、さん?」
「フジサキでいい」
「そう? なら、私も『
アオという名前は、どうしてもCOLORFULのことを思い出させる。しかしそれ以上に、この名前が持つ響きが好きなのだ。短くて、色々な意味を込めることができる名前だ。
そう思ってフジサキを見ると、彼はわけがわからないといった様子で首を傾げている。
「……そんなに嫌なら、構わないのだけれど?」
「え?」
「……え?」
「いや……」
「……?」
妙な沈黙が降りる。先にそれを破ったのは、フジサキだった。
「……あぁ。あんたの名前、碧か」
そうよ、とアオは頷く。
「さっきのは俺の能力だ。〈受動型〉の、音と視覚に関する能力を持っている。あんたの……アオの音が、青い空に見えたんだ」
「……そういうこと」
――能力。
それは、「超感覚」と呼ばれる、主に五感の拡張によって引き起こされる現象である。
約半分の人間が超感覚を有していると言われており、更にその半分程度の人間が、実際に「能力持ち」として認識されている。あくまで五感の拡張である以上、単純に優れた感覚、といったような、特に物理法則に反しないような能力もたくさんあるのだ。
それは裏を返せば、物理法則に反するような能力も存在するということ。
能力は大きく〈受動型〉と〈能動型〉に分けられている。
それぞれの感覚器官が、通常の機能を超えて物事を認識する能力が〈受動型〉、他者の感覚器官を通して、五感の機能を超えた影響を与える能力が〈能動型〉である。
当然、物理法則に反するような能力は後者が圧倒的に多い。
「ま、いわゆる共感覚の延長、ってやつだな」
共感覚と〈受動型〉の能力の境目は曖昧だ。
ゆえに、最初に発見された能力は〈能動型〉と記録されているが、実際の発現は〈受動型〉の方が早かったのではないかと、最近の研究では言われているらしい。
二十世紀の終わりに発見されたばかりだが、能力の研究はかなり進んでいる。すでに人々の生活に馴染み、便利に使われていた。
「すごいわね。確かに、私は空をイメージしていたわ」
「あぁ。アオの旋律は綺麗な色をしている」
「……そういう風に褒められたのは初めてね」
アオは、演技でもなく照れたように笑う。
(何だか、くすぐったいわ)
そんなアオを一瞥してから、フジサキはテーブルの上に目を向けた。閉じられたノートパソコンの上に、トウカのノートが置かれている。
「これ、トウカの詩にあてるために作ったんだろ?」
「えぇ」
「俺も手伝う。きっと、あいつは凄く喜ぶぞ」
「なら、フジサキがピアノを弾いて頂戴」
そう言って椅子から立ち上がり、フジサキに場所を譲る。リズムを取りながら、くるくると踊るように楽器に触れていると、ふっと、やわらかく笑う声がした。
「マルチプレイヤーか。岸さんみたいだな」
「器用貧乏なだけよ」
最終的に手にしたのは、壁際のスタンドに置かれていた、古いアコースティックギターだった。
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