ココロ

酷く、冷静な頭と裏腹に、心臓は鼓動を増して、心という物が本当に存在するのだと訴えているような気がする。

心とは、感情の集結地点にしてハジマリの場所。

生み出された感情は心と呼ばれる場所に集約され、全身に駆け巡る。

脳だと言う者も居れば、心臓だと言う者もいる。

実際の所、そんな物があるかどうかは解っていない。

だけれど、心は元々感情の依代の様なものだ。

それが存在しようと、しまいと、認めるのは個人の問題だろう。

神の存在は証明されていないが、信じている者も信じていない者も当たり前のように存在する。

心もそんなようなもので、科学的に解明されていない以上、観念的な問題と言わざるを得ない。

けれど、やはり心を感じる事は神を感じるより遥かに多くて、確かなものだと思う事ができる。

脳は、酷く冷静だ。

事実を淡々と処理して、冷酷に諦めろと訴える。

頭では分かっている。

けれど、どうしてか心臓はドクドクと音を鳴らす。

いつもは感じない、鼓動の熱さ。速さ。

決定に逆らうように、可能性を信じるように、無駄に足掻いている。

あぁ、これが感情なんだろう。

そう、実感させられる。

実に非合理的で、不快感をより1層強める。

がしかし、期待を訴えかける。

ただの脳での対話、対立なのかもしれない。

2つの思考が互いにいがみ合って決定から漏れたもう1つの思考が残った力を神経に命令しているのかもしれない。

捨てきれない、その感情を、想いを、こんな感情もあるんだぞと体に認識させようとしているのかもしれない。

それは、脳の働きによるものだと切り捨てる者も多いと思う。

確かに脳の働きの圏内で行われている事象に過ぎないのだろう。

けれど、私達は決定された思考と身体の反応の矛盾が生じるからこそ、もう1つの思考があるのだと再度思考する。

煩わしいものにしかならない事の方が多い。

そしてそれは脳の働きだと切って捨てるだろう。

だが、命令が受諾されたあと脳に残っているのは何なのだろうか。

その感情は、どこに補完される?

心とは感情の演算装置。全ての感情が集約し、全身へと伝えるもの。

淡々と決定されたその思考はとても淡白で、シンプルで、無駄な物が切り捨てられた事実に過ぎない。

そこには完結したものが浮かんでいて、感情を生み出す事は干渉がない限り有り得ない。

逆に、切り捨てられた思考、感情は不必要だとされて思考から消え去り、その権能は心へと譲渡される。

心と呼ばれる演算装置に。

それは、身体中に想いを伝える。

勿論、脳にも。

心拍は上昇する。

耳は活性して余計に心音を聞き取るだろう。

体は熱を感じる。

心臓に手を当てれば鼓動とその強さを感じる。

それはやがて、その想いを脳に、再び想起させる。

忘れ去られた感情は、心によって再び脳へと。

脳が事実を制定を行うとするならば、心は、心臓は、きっと無邪気な理の破壊者とでも、言ったところなのでしょうかね。

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呟き 雨深 優 @NeruAdveana

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