episode final
第61話
あの日と同じように、私は吸い込まれるようにあの橋に向かおうとしていた。もしかしてアキ君の家の近くで消えたら、迷惑がかかるだろうか。でもちゃんと遺書とか経緯とかも残してきたから、大丈夫だと思う。
準備には抜かりがないはず。完璧にこなしたはず。なりふり構わず一生懸命仕事をしてきた私なんだから、その辺はきっと大丈夫。
絶対に誰かに迷惑をかけるわけにはいかないと思っていた私は、最終確認をするように、頭の中で残した痕跡がないか探した。頭の中では別のことを考えていたけど、足はちゃんと駅の方を向いて歩いていた。
「……莉緒さんっ!」
すると遠くの方から、アキ君の声がした気がした。気がしたっていうか多分呼ばれたけど、私は振り返らなかった。ここで言葉を交わしてしまうと、元・消えようとしてた彼には全部バレてしまう気がしたから。
絶対に追いつかれたくなくて、私は少し小走りで駅の方へと走った。
「莉緒さんっ!!」
彼はそれでもあきらめていないようで、大きな声で私を呼んだ。
ってか片付けも投げ出して走ってきたのかな。
もうすでに走り出していた私はさっきまで念入りにしていたはずの確認なんてすべて忘れて、そんな気の抜けたことを考えた。
「莉緒さんってば!」
彼の声はもうすぐそばまで迫っていた。意地でも追いつかれたくない私は、全力疾走で彼から逃げた。実に十数年ぶりの疾走だった。
「ねぇ、待ってっ!!!」
身長約180センチの彼と、約157センチの私。そして20代前半の彼と、ほぼ30歳の私。どこをどう考えても私が彼の足から逃げ切れるわけはなかったみたいで、努力もむなしく腕を掴まれた。ついに観念した私は、ゆっくりと彼の方を振り返った。
「どうして…、逃げるの…っ。」
よかった。20代前半男子も息は切れるんだ。
すごく当たり前のことを考えて、私も息を切らしながらなんとか笑顔を作った。
「ごめん…っ。変な、人かと思って…。」
「変な人が、名前呼ばないでしょ…っ。」
でもアキ君の息はすぐに整い始めた。まだ私の息は切れているのに、「ふぅ」と大きな深呼吸をして、そして困った顔で正論を言った。
「そっか…っ。ごめん。」
もっとまともな言い訳をすればよかったと反省して、私は謝った。アキ君は首を横に振って「まあいいんだけどさ」と、よくなさげな態度で言った。
「一緒に帰ろうっていったじゃん。なんで先帰るの。」
「あ、そっか…。忘れてた。ごめんね。」
そして約束を破ったことも、サラリと謝った。そもそも約束なんて守る気がなかったからか、気持ちのこもっていない謝罪は本当にサラリと口からでた。アキ君は大きくため息をついて、「もう」とあきれた声を出した。
「ねぇ、莉緒さん。」
「ん?」
そして少し真剣な顔になったアキ君は、まっすぐ私の目を見た。そして一旦下を向いてまた少し大きめに息を吐いた後、また私の目を見た。
「どうだった?俺たちの演奏。」
そして緊張したような表情で聞いた。私はそんなアキ君を少し安心させる意味で、にっこり笑ってみせた。
「ひどかった。」
そしてまたサラリと、すごくひどいセリフを言った。案の定アキ君はすごく傷ついた顔になって、「そっか」と悲しそうな顔で言った。
ここまでの会話の中でウソしかついていない私だけど、この部分だけはウソをつきたくなかった。最後に私の気持ちを伝えておきたかった。確かにアキ君たちの演奏はひどかった。前の2組と比べても、へたくそだったと思う。
「でも…。すごかった、音楽だったよ。」
確かに上手だったとは言えなかった。でもすごかった。胸に響いた。10年もバンドマンといたはずなのに、私の語彙力は全然成長していないらしかったけど、私の知っている言葉の中で唯一気持ちが表せるのが、"すごい"って言葉だけだった。ただただすごかった。立派だった。ちゃんと音楽だった。
「そっか。」
するとアキ君は安心した顔になって言った。だから私は念押しするようにもう一回、自信を持って「うん」と答えた。
「それじゃ、先行くね。」
黙って消えようとしていたけど、最後の挨拶が出来たらもっとスッキリした気がした。感想が伝えられて良かったって思った。
呼び止めてくれてありがとう。君には感謝してばかりだね。
「莉緒さん。」
するとアキ君は、振り返った私の手をもう一度掴んだ。
もう私には話すことも悔いも何もないのに、まるで行くなと言われているように、彼はまた私の腕を掴んだ。
「俺、音楽をやめようと思う。」
そして、とてもはっきりと言った。私は驚いて、思わず彼の方を振り返った。
目の前に立っている彼は、とてもスッキリした顔をしていた。
初めて見る顔だと思った。
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